因島空襲 61年目の7月28日 7人の犠牲者遺族(田熊町)日立造船内の殉職碑にお参り

掲載号 06年07月29日号

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 最も烈しかったといわれている2回目の因島空襲があった61年目の7月28日、7人の犠牲者遺族が、すべての工場殉職者が祀られている日立造船因島工場内の殉職碑「殉護照」にお参りした=写真=。

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 土生工場内で亡くなった岡野孫三郎さん(当時49歳)の長男夫婦である宣行・政枝さん(田熊町)、同じく同工場内で犠牲になった小丸正人さん(当時32歳)のコミヱ夫人、長女由紀子さん夫妻、次女祥子さん夫妻(田熊町)が午前10時、殉職碑の前で般若心経を唱えながら亡き父の霊を慰めた。

 遺族の気持ちは「父がどこで亡くなったか知りたい」という痛切なものがあった。しかしこの問いかけに答えるには、今の日立造船因島工場はあまりに変貌を遂げすぎている。OB、現職、行政、住民一体となった取組みが求められている。

 通説では昭和20年の米軍による因島空襲は、3月19日と7月28日の二度で、3月が1人、7月が土生工場と三庄住民あわせて約90人の犠牲者が出たと言われている。

 しかし実態はほとんどわかっておらず、空襲の回数や犠牲者の数についてもいろいろな説がある。軍人の犠牲の実態もまったく浮びあがってこないのも腑に落ちない点である。

 現在、最大の問題は、犠牲者の慰霊の営みが、遺族日立造船、同窓会にまかせきりになっていることであろう。報道陣のなかからも「戦後一回も慰霊祭がないのはあまりに異常だ」との声も上がっているくらいだ。遺族の高齢化も進み、市をあげた慰霊祭の早期実現が期待される。

NHK広島局 新証言を放映

200608010012.jpg 昨年につづいてNHK広島放送局は26日、夕方6時台の「お好みワイド広島」で約7分間、因島空襲企画を放映した。

 昨年の特集は、因島空襲における三庄町の住民被害の実態に重点をおいた。それに対して今回は、最も烈しかった日立造船因島工場への無差別空爆に踏み込んだ。そのために2人の新証言を登場させた。

 ひとつは、当時の会社職員で葬儀すべてを取り仕切り空襲翌日に日立造船本社に報告に向った三浦勉さん。空襲の規模の大きさと必死の弔いの営みをうかがい知ることができた。

 つづいて土生町大宝寺副住職の山本寛雄さんが、犠牲者の大半が火葬された場所の特定につながる証言を初めて行なった。

 さらにカメラは一日も早い慰霊祭の実現に向けての活動も追っている。関係者は自分たちで録画したビデオを使った集会も考えているという。

因島空襲の映像公開の集い開始

 日立造船因島工場への空爆と思われるフィルムが現存することが分かり、8月1日から公開される。当日は、遺族、体験者、日立造船因島工場、報道関係者などが出席する。

 このフィルムは戦後50周年の1995年、青森空襲を記録する会が米国から大量のフィルムを入手した際そのなかに含まれていた。

 主催者は、「空襲のもとで犠牲者がでていることを考えれば複雑な気持ちだが、空襲被害の場所の特定に役立てたい」と説明する。

 公開は要望に応じて、因島の土生町、三庄町などの各地域、尾道市、小中高生や大学生など、順次行なわれる予定。

【問い合わせ】0845-22-7135青木忠。

因島図書館 関係資料閲覧

 因島図書館(岡野興次館長)は27日、郷土資料として因島空襲関係資料の公開を始めた。手続きをすれば誰にでも閲覧できる。

 その関係書籍は、因島空襲と思われる写真が掲載された「別冊1億人の昭和史〈銃後の戦史〉」(1980年、毎日新聞社発刊)。副題は、「一億総動員から本土決戦まで女も子供も根こそぎ動員、隣組・配給・防空演習、代用品万能時代日本大空襲」。

 掲載された一枚の写真には、「因島 米英艦隊から発信した航空機が昭和20年7月29日(ママ)九州北部から瀬戸内海さらに駿河湾までの一帯に大空襲を敢行した写真は因島の日立造船所が空爆を受けているところ」と、写真説明がされている。

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