伝説の碁打ち 本因坊秀策【8】その時歴史は動いた 精神性を重んじる日本人の美学

掲載号 06年07月08日号

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 「その時歴史が動いた」―因島外浦町出身の碁聖・本因坊秀策―(7月5日・NHK総合)。

0607060003.jpg 文政12年、今の尾道市因島外浦町の「庄屋」?の二男として生まれた本因坊秀策。囲碁の天才・神童と騒がれ、幼名を虎次郎といった。世に語り継がれる「耳赤の妙手」は天賦の閃きとしかいいようがない。20歳にして本因坊跡目に推挙され御城碁出仕、前人未踏の十九連勝という記録を残して34歳という若さでこの世を去った。彼が残した名局「秀策流」をコンピューターグラフィックを使い、キャスター松平定知アナウンサーの名調子に、あっという間に43分が過ぎた。

 江戸時代の教育法「稽古(けいこ=昔の事を手本にして参考にする)」は、手に取って教えるのでなく、自分で考え理解する「見取り稽古」であった―と解説。碁や茶道、能楽など稽古ごとはすべての人間形成のゆるがぬ精神性を重んじる日本人の美徳―であると結んだ。

 NHKのプロデューサーから感想を聞かれたが、伝説の勝負師の人生哲学のとらえように異論はないが、歴史上で「庄屋」の出身は桑原家に入婿した秀策の父輪三で分産別居商業を営んだ。

 このことは秀策の甥、桑原寅四郎氏が書き残した「本因坊秀策小伝」によると「輪三の生家安田家は、代々庄屋を勤め、西福寺という安田家だけの氏寺を持つ程の名家であった」とある。秀策の青少年期に父方の安田家を名乗っていたこともあり家系をまちがえたらしい。

 このほか、幕府に提出した跡目願いの親類書には父輪三の職業を「百姓」と秀策はしたためている。

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