元勤労学徒の亀田市長まねき「因島空襲を想い語る会」犠牲者への慰霊祭望む声

掲載号 06年06月17日号

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 因島が2度目の空襲をうけ多くの犠牲者が出た7月28日を前にした同23日(日)午後1時30分から、特養「しまなみ苑」(因島三庄町7区)1階ホールで、第5回因島空襲を想い語る会が開かれる。今年は、日立造船因島工場での勤労学徒動員経験をもつ亀田良一尾道市長を招き、同じ場所で働いていた土生女学校の元生徒らと交流しながら、当時の戦争体験を語り合う。

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日立造船因島工場での元勤労学徒の亀田良一尾道市長

 主催は因島三庄町の住民を中心にした実行委員会(尾道市因島椋浦町272/電話・FAX0845-22-7135=青木忠)。「三庄町の被害の実態は明らかになりつつあるが、最も犠牲者がでた土生町の被害の実態はよくわかっていない。犠牲者のご遺族との連絡がとれれば、来年にも慰霊祭を実現したい」と語る。

封印された空襲

 広島、呉、福山の空襲と違って因島に空襲があったことはあまり知られていない。「封印された空襲」と呼ぶ人もいる。太平洋戦争の末期、米軍は、軍需工場であった日立造船因島工場を中心に2度にわたる空襲を敢行した。

 公開された日本本土空襲作戦計画の米軍資料には、「因島ドックヤード」と明記され、攻撃目標に設定されている。呉―因島―広島―福山とまさしく戦場であったのだ。

 3月19日の土生工場への空襲では一人の勤労学徒が機銃掃射の犠牲になった。7月28日の空襲は悲惨極まりないものがあった。土生工場空襲の経験者が独自に調べた結果によると軍関係をのぞいて、従業員だけで70数人の死者が出たという。さらに三庄町では民家にも爆弾が投下され、0歳の子どもなど10数人の犠牲者がでた。

 しかしこれだけの犠牲者が出たというのに、正式な記録は何ひとつ残っていない。市も会社も沈黙と無関心をつづけてきた。

慰霊祭めざして

 空襲の経験と記憶は、記録されないままに肉親を通じて伝えられてきた。犠牲者の家族は、命日の「7月28日」をひっそりと迎えつづけた。因島空襲の悲惨さは、多くの市民の知ることにはならなかった。犠牲者への公的な慰霊祭が行なわれたという記録は残されていない。

 平成14年7月28日、第1回の因島空襲の犠牲者を追悼する集まりが始まった。三庄町7区森神社下の防空壕前で約100人の住民が黙祷を捧げた。それ以来、毎年つづけられ、被害の実態が徐々に明らかとなり、犠牲者の氏名が特定されつつある。

 しかし最大の犠牲がでた土生町の被害の実態は不明なところが多い。犠牲者の氏名を具体的に特定する作業は全く進んでいない。戦後61年。空襲の実態を調べ、犠牲者の氏名を特定し、遺族との連絡を開始する作業は、いっそう困難になっている。

 今年の集会は、亀田良一市長の出席に見られるように全市的な広がりを見せ始めている。一つの転機になればと関係者は期待する。

 空襲当時、尾道市の旧制尾道中学(現在の県立尾道北高校)、尾道商業、福山誠之館高校などから因島に2000人を超す勤労動員学徒がやってきていたという。土生女学校など多くの地元の少年少女とともに働いていた。

 一人ひとりの記憶を掘り起こし、それを総合すれば封印された悲劇の実態が浮き彫りになってくる可能性も出てくるだろう。合併元年。市をあげた取り組みが期待される。

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