海賊・自由と仲間と家族と【15】

掲載号 05年05月21日号

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(要約)

 かねがね海賊を停止しているにもかかわらず、瀬戸内海の斎島(いつきしま 現広島県豊田郡豊浜町)で起きたのは曲事である。

 海で生きてきた者を、その土地土地の地頭や代官が調べ上げて管理し、海賊をしない旨の誓書を出させ、連判状を国主である大名が取り集めて秀吉に提出せよ。

 今後海賊が生じた場合は、地域の領主の責任として、土地などを取り上げる。

 秀吉はありとあらゆる手で、瀬戸内の海賊たちを手中に入れようとした。信長没後、毛利氏が秀吉の配下にはいると、毛利氏や小早川氏と結びつきの強い因島村上氏もそれに従った。しかし、そんな中で、最後まで秀吉の手中に入らなかった者たちがいた。三島村上総大将 村上武吉をはじめとする、能島村上氏である。誰の家臣にもならず、自由に生きようとする能島衆を、秀吉は目の敵にし、武吉たちを苦しめていく。事実、武吉の次男 景親(かげちか)の妻と2人の息子は、秀吉によって、人質として大坂城に連れていかれ、それっきり消息を絶ってしまった……。さらに秀吉は、能島村上の良き理解者 小早川隆景に能島を攻撃させる。能島を去らねばならない武吉にとっても、攻撃を仕掛けねばならない隆景にとっても、本当に辛い事件であったことだろう。そして上の、海賊禁止令によって、名実ともに、戦国時代の海賊は姿を消した……。

 海にはもともと境界なんてものはなかった。海は自由であった。そこに生きる人々は不安定な生活をしながらも自由に輝いていた。土地よりも地位よりも名誉よりも大切なものを知っていた。どんなに辛くても、苦しくても、生きて守るべきものがあることを知っていた。

 しかし秀吉は、その自由な海に枠をはめた。自由に生きる民を固く縛ろうとした。そして彼の思惑通りになった。彼は勝った気でいただろう。これで天下は俺のものになった、と。だがその後、秀吉は朝鮮出兵の際に、朝鮮の水軍に惨敗した。秀吉の持つ水軍は、能島・因島の水軍を含まない、ただの寄せ集めにすぎなかったからだ。

海賊禁止令
1588年(天正16年)7月8日、豊臣秀吉が出した「海賊禁止令」。「海の刀狩り」とも言われる。

終章 海賊たちの遺産

 海賊の生き方は、私にとって、新鮮だった。それは、教科書で学んだ誰の生き方にも似ていなかったからだ。

 海賊たちは生きることに命を懸けた。天下人の家臣になって地位を得ることよりも、大切な仲間や愛する家族と共に、一日一日をずっと共に生き続けることを願った。自分だけではない、愛するすべての人と共に、自由に生きることを望んだ。

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