海賊・自由と仲間と家族と【4】

掲載号 05年03月05日号

前の記事: “因島市当初予算案一般会計97億余万円 尾道合併への道筋に重点 造船好転で8年ぶり増収見込み 賛否とわれる行政推進員条例
次の記事: “この島に水軍の末裔偲ばれて村上の姓の人の多さよ

 「この船の積荷を少し頂いちゃえ。俺たちだって、生きなきゃならないんだ」
 これではまるで海賊、というより、思いっきり海賊……。そう、海賊はここから始まった。しかし運ぶ側も運ぶ側で、このような海賊が進出したおかげで、積荷の一部をこっそり自分のものにすることができた。つまり、荷物を少し自分のために取っておき、役人には「海賊に取られました」と報告すれば、おとがめはなかった、ということである。

 初めのうちは、海賊は家族単位で積荷を頂戴していたが、だんだん集団化して、瀬戸内を横断する船を襲うようになった。ちなみに、北九州の海賊たちは、朝鮮や中国からの外国船を襲っていた。わざわざ船で追っかけるより、隣の村を襲ったほうが手っ取り早いのでは?と思うかもしれないが、隣だって島暮らしだし、自分たちと同じくらい貧しい。とるものなんてなーんにもない。それより、貧しいお隣どうし、協力して海賊したほうがおトクなのだ。

 しかしこれで怒ったのが朝廷である。元慶7年(883年)、朝廷は瀬戸内海の国府に海賊退治を命じた。が、雇われたのはなんと海賊。海賊退治に海賊を使うわけである。しかし、海賊は、お隣の海賊どうし協力しあうものである。そううまくいくだろうか。

A海賊「海賊退治に行くぞ~!お、海賊船だ。まて~!」
B海賊「わぁっ、逃げろ~!」島陰に隠れる。
A海賊「まて~!」追いかけて島陰に入る。
A海賊「まてまて~!……よーし、役人は見てないな。ふぅ、困ってる者どうし、マジで戦うわけないじゃないか。B島の皆さん、ご苦労様でした」
B海賊「いえいえ、これからも仲良く海賊しましょうね。じゃ、さいなら~」

 すごくうまくいっている!海賊どうしでは。しかし、朝廷に海賊退治を頼まれた役人はさぞかし困ったことだろう。

役人「また、わしらの見てないところで仲良くしおって……。ま、いーや。朝廷に報告書でも送るか。海賊を退治しました、っと。次に報告書を出すときには、被害をオーバーに書いてやろう。そうすれば褒美もアップするしね。」

……こちらもうまくいっているようだ。

 このように、海賊の始まりは、生活に困った海の人々の行いからであった。ちょっとどうかな、というようなこの問題を知った上で、大目に見ている役人も寛大である。というより、そもそも海賊が起こった原因は、朝廷や役人にもあるのだ。海賊たちは本来、海という自由な場所で、自由に生きる平和な民だった。それを陸の者たちが入ってきて、勝手に枠をはめようとした。そのため海の人々が生活できる場所が非常に狭くなり、彼らはやむをえず、海賊行為を働いたのだ。

写真説明 村上武吉墓塔(1604年8月、山口県・周防大島にて72歳で没す。曹洞宗元正寺墓地)

E

トラックバック