52年目を迎えた島のバス事業 海路から陸路に変った島民の足 時代の変遷に即した経営努力

掲載号 04年09月18日号

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 9月20日はバスの日。明治39年のこの日、日本最初のバスが京都で開業した。因島市における創業は、市制施行の前年の昭和27年8月1日、今年で52年目を迎える。因島市のバス事業は、市営の尾道市、三原市、町営の瀬戸田町と違って民営で始まり、現在も瀬戸田町が民営に移行した以外、変っていない。

 因の島運輸株式会社(村井敏宏社長)の創立は昭和27年6月。代表取締役社長に村井冨太郎さんが就任、資本金200万円、車輌数2、従業員3人で設立された。最初の運行は、土生町の長崎桟橋―大浜町(田熊、重井、中庄経由)の大浜線、土生町の湊橋―三庄町の家老渡(三庄町千守、神田経由)の2路線であった。当時は、因島市内には乗用車が3台しかなく、巡航船、自転車、徒歩を主要な交通手段にしていた時代ではたして何人がバスを利用するか、不安がられたという。

時代とともに歩むバス事業の経営

 高度成長期が到来するなかで、市内路線だけの因島市バス事業は飛躍的に成長し、昭和46年頃にピークを迎えた。やがて大きな環境の変化が訪れる。マイカー時代の到来、造船業の衰退。昭和58年12月の因島大橋開通にともなう島の交通体系の海上中心から陸上中心への移行である。

村井社長

 現社長の村井敏宏さんが村井嘉美さんをついで社長に就任したのは、昭和58年11月、39歳のとき。時代に対応した経営手腕を問われた。市内路線を堅持しながら架橋を活用し、各社と共同して尾道、広島、福山路線を相次いで開業した。観光バスツアーも軌道にのせた。さらにアイ・ビー車検センターによる各種車の販売、修理、民間車検業を充実させた。

 資本金9千600万円。年商4億3千万円。乗合バスが、高速・大型6輌、一般路線・大型13、中小型5、貸切バスは、中2階2、大型4、中型2、マイクロ1。同社のバスの収入比率は因島市内線 33.26%、広島線 17.06%、福山線 11.35%、尾道線14.7%、観光・貸切 23.64%である。以前はドル箱であった市内路線収入の激減を市外線、観光でカバーするという経営になっているのが実情。

生活路線はどうなるのか

 市内線は、いまなお通勤手段であり、「交通弱者」と呼ばれる高齢者、障害者、通院者、通学生などにとってなくてはならないものである。しかし、経営面からみれば、市内線が隘路(あいろ)になっているのも事実。最盛期と比較すれば、利用客はその 8.6%におちこんでいる。にもかかわらず走行距離ではその61%を維持しているという。

 バス事業は、たとえ民営といえども強い公共性を求められ、赤字を理由に簡単には撤退できるものではない。鉄道のない島嶼部においてはなおさらのことである。従来、国はこの点を解決し、生活路線を維持するために路線維持費補助と車輌購入費補助の支援を行なってきた。しかし、平成13年からこの制度が変更。因の島バスのように1市内のなかでしか運行しない場合、国からの援助が市町村からの援助にきりかわった。因島市が、バス会社に補助し、その8割を国が特別交付税で負担する。その結果、危機的な市財政がバス会社を直撃することになった。現状では、路線維持費補助しかされていない。

 村井敏宏社長は、「会社としては精一杯の営業努力をしているのだから、市もそれに応えてほしい。バス事業の存続が絶対に必要だということを理解し、もっと協力してほしい」と、苦しい胸のうちをあかす。

 「バスの日」の趣旨は、「厳しい環境のなかで、地域の足の確保に努めるバスを皆様に見直していただく」というもの。因島でバスが誕生して52年。バスがあるのがあまりにも当たりまえになっている今日、島のバス事業の今後のあり方への関心が求められている。

参考リンク

因の島運輸 Webサイト http://www.innoshimabus.com/

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