因島を離れゆく娘のさみしさを慰めるごと桜咲きたり

掲載号 04年03月27日号

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井川 美千子

 この歌の場合、就職か進学かと迷うところもあるが、何かもう一つ夢が膨らむ思いがあるように思って進学としたい。故郷である因島を初めて出てゆく淋しさと不安をいかにも慰めてくれているかのように桜の花が、パッと咲いた、という歌意であるが、歌の上では娘さんを慰めているようでもあるが、実際には可愛い娘と別れなければならない母親である作者自身の方が慰められているような感じもするのである。

 ことわざにも裏面があるように、短歌も奥が広く、反対の意味にとられる場合もしばしばである。近ごろは何処の家でも一人か二人しか子供はおらない。四人、五人といる家は稀である。この歌も平均的に見て一男一女の子持ちかも知れない。桜の咲いている場所は高校の校庭の記念樹の桜でもよいが、行きずりの道端にある桜木でよい。まだまだ蕾ばかりだと思っていたのが、昨日今日の天候と暖かさでいっぺんに咲いた。満開かな・・・と思いながら仰ぎ見て、いつになく感傷的になっているのである。

 桜の花の出て来る場面は古来から、出会いの時よりも別離のときの歌が多い、小説でも映画でも終りは桜の花の散る場面である。日本人のこころのなかに桜の花が染みついているのかと思うほどに何はともあれ桜である。高齢者になればちょっと寂しいけれどもう何回このような爛漫の桜の花に会うことが出来るだろうかと思い。若い人達は、来年も十年後もこの満開の桜の下で会いたいね、どう成長しているか楽しみね、と言っただろう。蕾の桜・満開の桜・散る桜・夜桜・一人見る桜・雨に散る桜それぞれに深い意味を抱いているようで、桜の花こそが人生そのものに思えて来るのである。

(筆者・池田 友幸

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