商店街 右も左も店閉ざし 無気味に静けし足早やに行く

掲載号 03年01月25日号

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松井 弘元

 地方都市のどこの町にでも商店街はある。尾道にも本通り商店街があり、三原には帝人通り商店街があるように、因島の土生町にも本通り商店街がある。旧日立造船表門を出たところの荒神社の石段の前の道から長崎→塩浜→赤松→新生→中央→宇和部へと、延々と土生町を縦断しての商店街であった。

 この商店街が活気に満ちていた年代は、昭和十年代から四十年代後半までくらいで、その頃までは日立造船の従業員も下請工を含めると四千人くらいはいたであろうか、造船所が退け時になると何百人もの人人人がどっと溢れ出て、商店街も北から南に向いては歩けないほどの人通りであった。とくに月給日やボーナス日などは街中がごった返していた。

 この歌にあるように、商店街の右も左もシャッターを下しはじめたのには色々な要因がある。大型店舗の進出、高齢化、過疎化、少子化、それに日立造船の新造船部門の撤退をはじめに、かつてない経営不振による企業の縮少によって、熟練工の離散転出も大きい。因島市の広報を見ても毎月三十人くらいは減っている。

 作者は、賑わっていた商店街の一軒一軒を知っているだけに、余計に昔の日々が思いかえされるのである。貸本屋、うどん屋、駄菓子屋、旅館、仕立て物屋、風呂屋、履物屋などなど思い返している。「○○食堂の娘さんは愛嬌がよかったが、ええおばんになっているかも」「履物屋のおばんは愛想がええので釣られて桐下駄を買わされた」。頭の中を通り抜けていく幾つかの情景と現在とを見比べながら、気味悪いまでに静まりかえった街路を足早やに歩いているのである。

砂文字・池田友幸

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