望ましい合併とそうでない合併【04】 椋浦教育の発展から廃校

掲載号 02年11月02日号

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 現在、椋浦には、小学校も保育所もない。平成2年因島で最初に誕生した椋浦小学校はその長い歴史を閉じた。そして同時に因島第一号の保育所だった椋浦保育所も廃止となった。「子供たちの声が聞こえない学校のない町は淋しい」と町民は回想する。

 戦後、椋浦の教育は、辺地であることを逆用して大いに発展した。そのユニークな教育は県内外から注目された。しかし皮肉にも椋浦の辺地性がなくなるとともに廃校への道をたどった。

 明治、大正、昭和と各学年数人で全校児童は35人前後を維持してきた。昭和38年をさかいに減少の一途をたどった。62年にはついに10人を切るにいたり、廃校時の在校生は3人となった。

 すでに昭和42年因北小学校の設立とともに外浦、鏡浦の小学校はなくなっており、旧三浦村の地域から小学校が消えた。

 学校は地域を成立させる基本的な構成要素であり、それが失われることはその地域の存立すら危うくさせる。いま市内中学校の合併もとりざたされている。

 昭和28年因島は市制に移行した。住民は将来をそれにかけた。だがその時、どれだけの人が、次々学校がなくなるという事態を予想しただろうか。

 確かに因島一周道路もしまなみ海道もできた。しかしそれと引き換えに地域の過疎化と空洞化が進んでいる。もうそれもぎりぎりのところまできている。

 合併さえすればどうにかなるのか。市町村合併が避けられない時代の流れとするならば、何のための合併なのか、合併によって何をつくりだすのか、今一度熟考するときである。

青木忠

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