伝説の碁打ち 本因坊秀策【7】初心者にもわかる名勝負 歴史に残る「耳赤」エピソードその五

掲載号 06年07月01日号

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0606290005.jpg 話をもう少し盤外の秀策について述べることにしよう。

 秀策は江戸から2回目の帰郷で三原侯から増禄の沙汰もあり1年半という長い月日を国もとで過した。この間、日を定めては三原城に出仕して藩主浅野侯の相手や場内の武士たちの指導碁にあたった。もちろん、藩侯の勧めもあった三原浅野藩の本家筋にあたる安芸広島藩の儒学者坂井虎山から人の道についての訓導をうけた。そして、こんな話も残っている。

因島の阿虎来りて詩を索む

 この度の帰郷で、秀策が竹原の宝泉寺葆真和尚からの推挙もあって広島城下で頼聿庵(らいいつあん)を尋ねている。聿庵は頼山陽の長子で、山陽の最初の婦人御園淳子との間に生まれ、幼名を津具雄といい、のちに余一と改め聿庵と号した。叔父の頼春水の後を継いで山陽の母である祖母梅?(ばいし)夫人に育てられた。春水没後は藩学の教授となり、江戸に上って侍講もつとめた。その聿庵が秀策の訪問を受けて次の一詩を作って贈った。

一見英眸秋水光
(一見すれば英眸秋水の光=ひと目合っただけでそのすぐれたひとみに秋水の光のような英明さを感じる)
不追竹馬少年場
(竹馬少年場を追わず=彼は竹馬に乗って遊ぶ少年時代を知らず)
善棋十歳誰能敵
(棋を善くすること十歳誰か能く敵せん=一途に碁の研鑚に励み現在まで十年)
天下横行虎次郎
(天下を横行する虎次郎=虎次郎は碁の道を堂々とつき進んでいる)

 そして詩文の為書きに

因島の阿虎来りて詩を索む 欣然筆を走らす 聿庵

とある。因島から可愛い虎次郎がやって来て詩を書いて戻れというので欣んで筆を走らせたと書添えてある。この詩は、尾道市因島外浦町の秀策生家跡地にある遺品館「碁聖閣」に掛け軸にして保存されている。聿庵の特徴のある豪壮な筆跡はここを訪れる人の足をしばしとどめ当時の情景をほうふつさせる。弘化二年、聿庵44歳。秀策17歳であった。

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