伝説の碁打ち 本因坊秀策【5】初心者にもわかる名勝負 歴史に残る「耳赤」エピソードその三

掲載号 06年06月10日号

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shusakuzushozoga.jpg 「赤耳」のクライマックスは前号で記したが、話を盤外に移そう。

 秀策は囲碁修行のため江戸・本因坊家に入門、2回目の帰郷でなぜ、1年半という長い月日を費やしたのだろうか。修行中の16歳後半から18歳にかけての青春期は人生で最も重要な時期であるのに、あえて田舎で過している。その間、そこそこ碁は打ったとしても、どんな生活をし、どんな将来の目標を描いていたのだろうか―を推論を交え実証に迫ってみた。

江戸留学で故郷に錦―

 備後の国、因島外浦生まれの天才碁打ち少年桑原虎次郎は天保8年冬、三原藩士寺西右膳に連れられ江戸・本因坊家に入門。9歳だった。同14年には安田栄斎改め秀策四段に昇進。15歳の元服を終えた翌年の15年10月、2回目の帰郷となった。

 現在、尾道市因島外浦町の秀策生家跡にある「碁聖閣」に保存されている秀策遺品の一つに四段免許状が展示されている。

 「其許囲碁幼年なりと雖ども執心、所作宜しく候故去年七月三段格免許の処弥修業懈りなく手段益々精しく候、依って今般同僚会議を遂げ、向後上手に対し先乃二子之手合四段を免許し曄はんぬ、猶以って勉励逸群の心掛け肝要と為す可き者成、仍って免状件の如し」

天保十四年葵卯年十月六日
本因坊丈策(印)

安田秀策老

 初段から四段までの免許状は、故郷の実家に保存されているが、このうち三段までは本因坊家当主が与えたもの。四段免許は「同僚会議を遂げ」とあるところから本因坊家一門の内免許でなく、四家(本因坊、井上、林、安井)の正式な家元会議にはかって決めた公認の免許であることが明記されている。

 天保14年の囲碁番付によれば初段以上の有段者はアマ・プロ合わせ全国で258人。このうち四段は四家所属棋士全員で11人。その中に15歳の青年棋士秀策が名を連ねていたわけである。

身分は三原藩士 碁は預かり弟子

 このころの秀策の身分は三原藩甲斐守忠敬公から武士並みの十五人扶持(玄米一斗五升15人分の給与)を与えられ、今ふうにいえば江戸へ囲碁研修の留学生として送られていたわけ。本因坊家としては浅野藩からの「預り弟子」である。

 こうした立場の碁打ちは当時としては珍しくなく各地方の藩には、こうした身分の碁士がいたものである。なぜ、秀策が田舎に埋もれなかったのか、いくつかの理由があった。

(続く)

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