伝説の碁打ち 本因坊秀策【3】初心者にもわかる名勝負 歴史に残る「耳赤」エピソードその一

掲載号 06年05月27日号

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 前号に続きNHKBS2(5月6日放送番組制作局・東京)の「耳赤の一手」について所見を述べることにしよう。

悲運の大棋士井上幻庵因碩

 後世「碁聖」と仰がれる本因坊跡目秀策の数ある金星の中で、一般的に有名なのは「耳赤の一手」である。「耳赤って何じゃいな・・・」という疑問と同時に囲碁に無関心な人にとっても「耳赤」という言葉の響きにインパクトがあるらしい。

 幕末の江戸期に碁界は、相撲に例えれば東の横綱本因坊丈和、跡目秀和に対し西の横綱井上幻庵という番付。その幻庵に若干18歳の「安芸小僧」秀策青年が黒星を付けたのだから。このニュースは江戸をはじめ千里の道を走ったといわれる

 ところが、井上幻庵因碩の人柄については余り知られていない。第十一世井上因碩(幻庵)は武士の出で姓は橋本といった。6歳で囲碁の道を志し12歳で初段に昇進した。文政3年、井上家の跡目となり11年に準名人。井上家の当主となり碁所をかけての争い碁に命運をかけるが夢破れた。このころ秀策は12歳から14歳で本因坊家の兄弟子秀和らから聞いて知り尽していた「悲運の大棋士」である。

 棋風の大きさ、手筋の華麗さが因碩の特長で、乱戦の強さは丈和名人と対抗できたほどの実力者。「座隠談叢」によれば、因碩の容貌は満面に黒あばたありて眼光鋭けれども敢えて獰悪(どうあく=にくにくしい)ならず。能く子女を馴れ親しむる愛嬌を有せり―とあり、なかなかの人物であったと思われる。

 目前に対する相手は、青年棋士とはいえ盤上盤外の闘いを繰り広げてきた本因坊家の門人。時代を異にする年齢差があるとはいえ世間注視の対局となる。老因碩にとって闘争心をかきたてられ指導碁を超えて、勝負碁の気配が漂ったのも当然のことだった。

栴檀は双葉より準名人の度量

 秀策四段、幻庵準名人八段。2目置いての二子局は秀策優勢。翌日も続いて打ち継ぐものと思われていたが幻庵は中断。そして、黒先で打ちなおそうと切り出した。

 回りの人たちは耳を疑ったに違いない。幻庵に先とは秀策の実力は六段か、六段格。しかも、たった一局の打ち掛け碁で実力を見抜いた幻庵の炯眼(けいがん)もすごいが、準名人のありがたい申し出に秀策は応じた。その一方で先で、かんぷなきまで打ちのめされて「まだまだ」といわれるのではなかろうかという一抹の不安もあった。

(続く)

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