伝説の碁打ち 本因坊秀策【2】初心者にもわかる名勝負 茫然とした名局 耳赤エピソード

掲載号 06年05月20日号

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 5月13日、NHK番組制作局(東京)から6日放送されたビデオ・カセットと番組協力の礼状が届いた。

 秀策の生涯で囲碁史に残る名局のうち「耳赤」のエピソードほど世間にうけた話はない。「初心者にもわかる名勝負」の題名にはうってつけの話であるが、対局の内容は巷間で伝えられる「秀策快勝」の展開でなかった。

 秀策苦戦の盤面に打った一手が「耳赤」のエピソードを生み、それがこの時の碁を有名にしたともいえる。けだし、後世に伝わる名局であることは専門棋士も認めている。

 秀策を語る上で、この話はさけて通れないが、テレビの解説でわかりにくかった人のためにあらましを述べることにしよう。


 安田秀策と名乗り江戸・本因坊家へ三原浅野藩主からの「預り弟子」として入門していた天保14年(1843)15歳で四段の免許を受け翌年の秋に帰郷した。この頃はプロもアマも段位の実力が同じだったから天才少年と騒がれても不思議でない。だが、三原の殿様から禄(武士の給料)を受けていたのだから今風にいえば「囲碁の留学生」でプロになるつもりはなかった。ところが、その一方で「一、三、五」の布石「秀策流」を編み出して試みはじめていた。

 国もとに1年半もの間滞在したあと、弘化3年(1846)再び上府(江戸)の途についた。途中、大阪に立ち寄ったことが秀策の運命を変えたといっていいだろう。当地の高段者や大店(おおだな)に引きとめられるままに3ヵ月も滞在。十一世井上因碩との幸運な出会いが仕組まれた。

18歳の青年期 幸運な出会い

 本因坊丈和や跡目秀和と名人碁所をかけて死闘を繰り返した十一世井上因碩は隠退後「幻庵」と号し、大阪に住んだ。

 秀策より31歳年長の当時49歳の幻庵因碩は大阪囲碁界の大御所に君臨。秀策は本因坊家の麒麟児と注目されていた。この対局の実現を大阪の旦那衆が見逃すわけはない。

 幻庵八段と秀策四段は二子の手合い。立て続けに五番打たれたが、第一局は二子の打ち掛け(勝負を途中で中断)で「碁にならん」と秀策の段位以上の実力を見抜いた。そして、二段差の「先」で打ち始めた。幻庵の眼力、準名人らしい度量の広さがうかがえる。この第二局目が耳赤の局面を生むわけだが、秀策にとっても幻庵にとっても佳局と伝えられている。その「耳赤」のエピソードについては次回で述べることにしよう。

(この項続く。文責・庚午一生

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