県立瀬戸田高校が創立80周年 飛躍へ新しい模索始まる 10月8日記念式典と祝賀会

掲載号 05年10月01日号

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 県立瀬戸田高校(林春幸校長、普通科181人)は大正14年に町立瀬戸田実科高等女学校として開校して以来、今年で80周年を迎えた。10月8日(土)午前10時から、同校体育館で記念式典が開かれ、午後から祝賀会が催される。さらに、記念誌の発行と記念事業が行われる。

 瀬戸田高校の歴史は、四期に大別される。第一期は開校した大正14年から昭和17年までの時期である。限られた町財政のなかで町が女子教育に努力をかたむけた。第二期は、昭和17年から同23年までの時期。町から受け継ぎ、耕三寺耕三氏が学校経営を行い、女子教育に情熱を注いだ。

県立高校として充実と発展

 第三期が、昭和24年から同49年までの時期。共学制の県立高校に生まれかわり充実と発展をとげた。井口実校長時代(昭和36年4月~39年3月)について当時の新聞は、「大学は広島大学を中心に京阪神、四国地方の学校に進学、就職先も関西を中心に全国各地にあり、会社関係から好評」と記している。

 また、瀬戸田高校水泳部の活躍は有名である。第1期黄金時代は昭和24・25年ころ。第2期が昭和32年から34年ころ。東京オリンピック水泳候補選手に瀬戸田高を卒業した和気統(はじめ)選手=日大4回生と片岡輝男選手=立教大4回生の2人が選ばれ町民の大きな期待が寄せられた。和気選手は瀬戸田高校2年のとき、200メートル平泳ぎでアジア大会3位銅メダルを獲得した。中学生日本記録を持つ和気選手は水泳名門校から誘われたが、瀬戸田高校を選んだ。片岡選手は100メートル背泳ぎで瀬戸田高校3年のとき全国大会で2位になった。

新校舎へ移転 飛躍への苦闘

 現在のベル・カントホールの敷地にあった旧校舎から、名荷地区の新校舎に移転した。昭和49年7月のことである。翌49年7月に落成した体育館で創立50周年式典が挙行された。校舎は新しくなったが瀬戸田高校は深刻な試練を迎えた。「荒れる高校」「瀬高は怖い」時代の到来である。地元中学生の同校への進学率は平成3年には34%にまで落ち込んだ。全校あげた高校再生の取り組みがはじまった。1年で問題行動は急減。大学をめざす進学体制づくりも始まった。地元進学率も目にみえて回復した。学校再建は軌道にのった。

 林春幸校長=写真=は赴任して3年目。現在、「キャリア教育」と、それと連携して「道徳教育」に力を注いでいる。いずれも文部科学省の研究指定校である。「キャリア教育」とは、「生徒一人ひとりの勤労感職業感を育てる教育」である。「道徳教育」は、「生き方」についての学習である。

 林校長は、80年の伝統をしっかりと継承し、今進める教育の成果のうえに高校の未来を展望する。「行きたい高校、行かせたい高校」が目指す目標だと言う。瀬戸内海という恵まれた環境のなかで、進学と部活動の両面における伝統の回復をめざしている。同校2年の竹本章宏選手が、8月のインターハイ出場を決めたことで町中が沸いた。アジア大会の和気統さんは、「全国をめざす生徒が出てきてとても嬉しい」と後輩にメッセージを送った。

県陸上新人戦で竹本選手が2位

 県陸上新人戦(9月24日・25日、広島スタジアム)において瀬戸田高校2年の竹本章宏選手は走高跳で2位になり、中国大会出場を決めた。また、同校の小林啓介選手(2年)が砲丸投で5位稲角優選手(1年)が走高跳で5位、岡田庸希選手(2年)は400メートルで準決勝にまで進出した。因島高校の青木望選手(1年)は、3,000メートル障害で16位、5,000メートルで26位だった。県新人戦での瀬戸田高校の健闘が目立つ。竹本選手の中国大会での活躍が注目される。

関連リンク
広島県立瀬戸田高等学校

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