十六粒の大豆に一日生きられる戦没学徒兵の遺せし一首

掲載号 05年07月02日号

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山崎 勝代

 人間生きるにはまず水が必要ではあるが、「十六粒の大豆」と言う生きざまが、またこの一首が、どのような情況の中で作られたのか、戦没学徒兵の遺品にはちがいないが、戦中日誌か、誰かに宛てて書いたものか不明である。第二次大戦中に日本軍が南方の各島々に守備隊として送られたのが、その後は戦線の情況の悪化と共にいっさいの食糧武器弾薬の輸送はなく、次第に飢餓に追いこまれていった。おそらく、その様な状況下で作られた学徒兵らしい分析力と心情の述べられた短歌であったと思う。

 学徒の出陣(太平洋戦争・昭和十八年法文科系の徴兵の猶予を止め戦線に送り出した)のときの降りしきる雨の中を軍靴のザクッザクッという音と共に、身震いのするような映像を何度見たことであろうか。雨にかすむ神宮外苑を行進する若者の中の一人一人に、兄が弟が子が恋人もいたことだろう。

 終戦から六十年経った節目の年である。NHKのBS2では、昭和二十年という特集で夜の六時五十分から、小説家、タレントをはじめ有名無名の人達の「あの日あの時」を語らせているが、誰もみんな、一個のサツマ芋、一粒のコメに追われたことをはじめ。人間の生きるという限界について、ある人はしみじみと語り、またある人は溢れ出るように語っていた。当時を生き抜いた人達はみんないちように物語りや、つらい体験をもっている。

 二十八日の朝、天皇、皇后両陛下は、太平洋戦争最大の激戦地サイパン島を訪問、バンザイ岬に立たれて慰霊の礼拝をされていた。玉砕の島には民間人も含めて五万五千人の霊が眠っている。この戦死者の中にも多くの学徒兵がいたことだろう。

(池田友幸)

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