海賊・自由と仲間と家族と【16】最終回

掲載号 05年05月28日号

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 そのために、自らを厳しい掟で縛った。しかしそのおきては仲間との結束を意味するものであり、自由に生き続けるための要であった。”年齢よりも心であり、経験である”、”決して抜け駆けをしてはならない”。このおきてを守ることによって、海賊たちは、誰にも与えなかった自分の忠誠を、仲間に差し出すことを約束した。

 戦国。裏切りや下剋上、家族内の対立など珍しくなかったこの時代。海賊たちは世の中の流れに逆らって生きた。ちょうど船の舳先が、波間を裂いて走るように……。そして海賊たちは、戦国大名にとっては、海の水のようであった。手でつかむことも、流れを変えることもできはしない。

 毛利元就や息子の小早川隆景といった大名は、海賊を嫌うことはしなかった。隆景は、今まで陸の武士によって苦しめられてきた海賊たちに理解を示した。その結果、海の民からの信頼を勝ち得ることができた。毛利・小早川によって配慮を示された海賊たちは、彼らの海の力が必要とされた時、例えば木津川河口の合戦などで、毛利を援助した。ただし、誰の家臣ということでもなく、誇り高い海賊として。

 織田信長も、海賊の重要性を理解していた。木津川河口で村上水軍と戦ったのも、別に海賊が嫌いだったからではない。その時の信長の敵はあくまでも石山本願寺であって、海賊ではなかった。石山本願寺に兵糧を運び込む毛利軍を阻止しようとしたためであった。その証拠として、信長も自ら水軍を持っていた。

 しかし豊臣秀吉は違った。彼は海賊の敵である。海賊を、天下統一を妨げる邪魔者としか見ていなかった。主君の信長とは真反対で、本当に陸からの見方しかできない人間である。そして彼は「海賊禁止令」という枠を海にはめ込み、無理矢理流れを止め、自分の思い通りにしようとした。そうして秀吉は、海賊たちの大切なものを、自由を仲間を家族を、奪い去ってしまった。

 「海賊禁止令」が出された後、海賊たちは、様々な道を選んだ。秀吉の手中に入った者、毛利・小早川についていった者、かつては敵だった大名の家臣になった者、そして、自由であり続けようとした者……。

 海賊 村上武吉は、海賊であり続けた。そのため、何度も苦しい目に遭った。家族を奪われ、海城でもある能島を追われた。それでも彼は誰の配下にも入ろうとしなかった。かと言って、無駄に争いを起こすことはしなかった。無駄な戦いで何よりも大切なものを失いたくなかったからだろう。能島は滅んでしまったが、誇り高く生きた彼らは、決して敗者ではない。

 海賊は、日本の歴史を描くのになくてはならない存在なのに、天下人の影で生き、歴史の表舞台に出ることはなかった。では彼らは、私たちに何も残すことなく、裏舞台に消えたのだろうか。

 海賊たちは何よりも大切なものを残していった。それは、「生きる」こと。彼らは必死に生きたのだ。大切な人のために。

 陸の武士は、戦いで負けそうになると、部下の助命を条件に腹を切る。しかし、海賊はそうではない。海という不安定な場所においては、家族を守れるのは、仲間を救えるのは自分しかいない。本当に大切なものを守りたいならば、簡単に死んではならない、生きて生き抜いて守りきらねばならないのだ。それが本当の強さ、本当の「生きる」ということではないだろうか。

 能島は、島そのものが城であった。日本も島そのものが国である。海から歴史を見つめるその時、本当の日本が見えてくるだろう。そしてそこには、誰よりも力強く、誇り高く、その優しさは海のように深い、本当の日本人が見えてくる。彼らは、自由と仲間と家族を守り抜くために、命を懸けた。そして彼らは静かに、しかしまっすぐ、力強く、私たちに言うだろう。「生きろ」と。(終)

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