敗戦後の伊勢神宮 お賽銭の課税騒動 お伊勢さんの今昔【2】

掲載号 04年03月01日号

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庚午 一生

 新年号につづいて皇室の宗廟(そうびょう)「伊勢神宮」について雑観を述べてみたい。あれは昭和三十一年春だったと記憶している。近鉄津駅に降りると国鉄の貨物列車が目の前を通過していった。この駅は近鉄と国鉄が共有しているらしい。大阪本社から地方支局に転勤することを「都落ち」といわれていた。とはいっても、津市は三重県庁所在地で、その昔「津は伊勢でもつ、伊勢は津でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と伊勢音頭でうたわれたほど重要なまちであり、古い伝統文化が脈々と受け継がれている。なかでも伊勢皇大神宮は日本人の総氏神である天照大御神を御祭神とし皇室の御祖神でもある。

 その畏れおおい、神宮も敗戦による駐留軍の指導の下で憲法が改正され「日本国憲法における天皇の地位は”象徴的元首”であるとし「日本国はこの憲法下でもイギリスと同じく立憲君主国であり、その元首は天皇である。その一方で、現人神(あらひとがみ)から平民になられたということもあって当時の伊勢市長が「神宮のお賽銭に税金をかける条例」を上提しようとした。この報道に烈火の如くおこったのは大日本愛国党総裁赤尾敏氏。「共産党のバカ市長が畏れおおくも日本の元首である天皇家の先祖を祀る宗廟に税金をかけるとはけしからん」と日の丸を自動車の上に立てて独特の熱弁をふるった。

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 敗戦後、十年を経たといっても政治経済、教育、文化も慣れない民主主義を手探りで求めていた時代の出来ごとであった。もっとも法律上、宗教法人に課税できないのでこの市条例は当然のことながら成立しなかったが、この話は皇大神宮の在る伊勢市でおきた出来事であっただけに注目にあたいする。とき、あたかも売春禁止法が実施され、かつて栄えた古市の遊郭街が閉鎖され、修学旅行の団体客も激減していた頃だったから税収の落ち込む行政にとって背に腹は変えられなかったことだろう。

 それから数年後のこと、あの伊勢湾台風である。瞬間風速が50キロとも70キロともいわれ、明野航空自衛隊の風速計が65キロで壊れて止まっていたと伝えられる。この台風で昼は暗かった伊勢神宮の森の木が倒れ青空が見えるようになり、木漏れ日が差し込むようになったことを書き残しておこう。

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