望ましい合併とそうでない合併【03】 戦後の椋浦は一時三庄町

掲載号 02年10月26日号

前の記事: “元英軍捕虜の娘ジェーンさん ゆかりの三庄町などを訪問
次の記事: “江戸・本所相生町御碁所碁盤師 高梨清兵衛作「組立碁盤」複製 本因坊秀策にあやかり因島盤に

 明治に起きた椋浦の分離・独立運動の背景には「因島で最も早く開けた椋浦」という強いプライドがあったと思える。

 例えば昭和15年の三浦村立椋浦尋常小学校の校舎新築に、それはよく表れている。公費はほとんど望めないなかで椋浦の自費で校舎新築をなしとげている。

 昭和23年三浦村は解体し、椋浦は三庄町と、鏡浦、外浦は中庄町と合併することになる。学校教育六三三制移行にともなう中学校設立が重荷で、財政的に独立は困難であった。

 三庄町に入った椋浦は、三庄町10区と称し、部落長は区長に変わった。その後も独自の年中行事は変わらなかったが、三庄町民体育大会には、別船を仕立てて地域あげて参加し、何回か優勝した。

 昭和28年因島市が発足。地名は椋浦町となったが、しばらく自治組織は三庄町の区長会に属し活動する。昭和38年三庄区長会から分離し、椋浦単独の区長会として発足し、因島市区長連合会に加入した。

 因島の市制施行以後、しばらくして椋浦をめぐる環境は大きな変貌をとげはじめる。町民念願の道路の整備がそれである。昭和43年椋浦峠を自動車通行。45年三庄間海岸道路開通。
 54年から因島大橋開通の58年にかけて県の事業として東海岸道路が完成し、市制30周年にして因島一周道路が完成した。三浦線バス運行もはじまった。椋浦の辺地性も解消した。

青木忠

E

トラックバック