望ましい合併とそうでない合併【02】 明治の椋浦が分離独立運動

掲載号 02年10月19日号

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 椋浦町の川島進区長会長を訪ねたところ、いきなり明治時代に起きた、三浦村からの椋浦分離独立運動の話がでた。

 市町村制施行にともなう明治年の三浦村(外浦・鏡浦・椋浦)合併に際して、椋浦は引き続き独立の村もしくは三庄への合併を望んだが成らなかった。

 しかし、椋浦自治の意欲は旺盛で、地理的に一体的な行政の困難性から、住民は合併3年後に三浦村からの分離独立を求める分村運動をおこした。外浦、鏡浦もこれに賛成し、激しく県へ陳情した。

 この要求は県に認められなかった。今度は三庄へ分離合併を請願したが、これも却下、以後再び運動を起こすことを禁じられた。

 こうした運動の背景にあったものは、椋浦の住民が営々と築き上げてきた独自の生活と文化を守ろうとする、強い自治意識であった。

 椋浦は、江戸時代中期の未曾有の繁栄を支えた廻船業が没落するなかで明治を迎えることになった。多くの船員は引き続き他国船に乗り、また高級船員として明治維新後も活躍した。

 そして高い教育水準を維持発展させることで新時代に対応しようとした。海運業を通じた海外文化の移入はつづいた。船頭などの教育の必要から生まれた松本塾は明分舎、そして椋浦学校設立に受け継がれた。

 それは、明治5年学制公布の5ヶ月前のことであり、広島県下ではいうまでもなく全国でも稀なことである。

青木忠

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