恩師の近況

【恩師リレーだより】大村勝

恩師 大村勝先生

 初めて土生町へやって来たのは因島市制施行3年前の昭和25年4月。当時は御調郡土生村でした。島の第一印象は道路の狭さでした。土生中学校へ5年間勤務したのち発足したばかりの因島高校機械科へ転勤。そこは見事に何の設備もない木造二階建てのオンボロ校舎のみで、各教室の個人用ロッカーから自転車置き場、そして実習用のキューポラ(鋳物を溶かす炉)まで一回生、二回生のみんなで手分けして夏休み返上での手造りでした。何もかも整った恵まれた環境下にある現在の高校生には想像もつかないでしょう。それだけに今では求めても得られない貴重な体験をしたのかもしれません。

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掲載日 : 2008年08月07日

【恩師リレーだより】素晴らしさ哉!思い出の中の因島高校

恩師 山本康正先生

 昭和33年4月1日朝、私は広島を離れ、山陽本線備後尾道駅で下車、駅前桟橋から土生丸という木造のポンポン船に乗り、一路、新任地の因島へと向かった。船が速度を上げれば海水が甲板を洗うような小さな船だった。重井沖を過ぎて西浦付近から、仰ぎ見た青影山の青々とした松の翠と山麓に広がった蜜柑畑の美しさに感嘆しながら、宇和部で下船し、右手に木造の因島市庁舎を見て、湊橋から郷川に沿って大山神社の前を通り、因島高校へと向かった。郷川は小川ながら、流れは清冽で(当時、夏の宵には蛍が飛び交っていた。)天理教の横には水源池があり、大山、山麓の対潮院まで水田の田圃がひろびろと広かっていた。そこから眺めた岡の上の因島高校は、丁度夕暮れ時でもあったので、まさに「赤い夕陽が 校舎を染めて、楡の木蔭に 弾む声。あゝ あゝあ 高校3年生。…」当時流行した舟木一夫の学園ソングそのままの風景が展開していて、遠く運動場からは生徒達の明るい歓声が響きわたっていた。

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掲載日 : 2008年08月07日

恩師リレー便り 因島高校時代の思い出 楢原武和先生

楢原武和先生 私が母校である因島高校に勤めた期間は、昭和54年から平成12年3月までの23年間でした。赴任当時の生徒の学力はすばらしいもので広島大学クラスに10名以上は合格していました。英々辞典で毎日予習プリントを作成して授業をしました。

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掲載日 : 2007年08月07日

恩師リレー便り 因島高校時代の思い出 原大二先生

原大二先生 昭和49年度に旧因島高等学校に数学の教師として赴任したのが因島との初めての出会いでした。以後、昭和58年度までの9年間、平成2年度から平成12年度までの10年間お世話になり、この度の異動で、また帰ってまいりました。3度目、20年目の因島高校となります。

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掲載日 : 2007年08月07日

因島北高校の思い出

元教員 堤和子(尾道商業)

堤和子

 因島北高校は、私にとって、教員として最初の学枚です。教員としてのイロハを学び、初めて担任を経験し、教師として育ててもらった11年間だったと思っています。学枚の前の海に落ちる夕陽が美しく、生徒達は砂浜をジョギングしていたものです。又生徒と一緒に、グランド一杯に広がり、フォークダンスをした楽しい思い出もあります。

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掲載日 : 2002年08月01日

23年間の思い出

教員 楢原武和

楢原武和

 私は1979年37才で母校因島高校に帰ってきました。この間7回3年生を送り出しました。又、3人の子供を自分の勤務している高校に通わせることが出来たことを喜んでいます。家族全員で因島高校時代の共通話題が出来るからです。

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掲載日 : 2001年08月01日

よき伝統を守りさらに発展を

教員 小崎和郎

小崎和郎 因島北高校に17年、因島高校に12年、新生因島高校に2年、私は教員生活の大部分を因島の高校で過ごしてきました。教員生活のスタートは、機械科が家老渡の日立造船の工場内にあったときです。新採用の教員として赴任したその年の11月に、機械科と因北分校が合併して新しい校舎が完成したため、重井の地に移りました。

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掲載日 : 2001年08月01日