因島水軍簡単ガイド                    

                                                    

                                                                   

南北朝時代  前期水軍として著名なのが村上義弘ですが、伊予の新居郡大島の出自とつたえられています、「備後国因島本主治部法橋幸賀館」の後 、青影城に居たと言われている、義弘の子供がいたが,晩年の子供らしく、二歳で死別する、(お竹とゆう、女子がいたが成長して後期水軍の因島村上顕長の室となる)幼少のため没落し沖ノ島(魚島)に移住していて後の村上に気兼ねしたのか沖とか島とかを名乗つた、信清は成長して大三島の好味の城主になった。こうして因島は誰もいなくなり、伊予河野の配下の今岡通任が姉婿のよしみで青影城に入ることになるが、ここで重大な事がおきる、以前は官方に租税を納めていたが,河野氏が武家方のため年貢が上がらなくなった、そこで朝廷は北畑師清に命じいよいよ出陣となる。

後期水軍の成立は、紀州熊野の雑賀水軍の援護のもとに、塩飽水軍も 笠岡沖の神島も平定し味方につけ。 大島 大三島 因島へと進入してきます、天授三年(1377 ) 箱崎浦の合戦です、上陸地は現在の江の内の奥の方ではないかと思いますが、そのあたりに石塔や祠などがありますが、なぜか今岡方の戦死者のみしかありません。 かくして瀬戸内の要所を掌握した,北畑師清は 義顕 の子で長男の 雅房を能島に,次男 吉豊を因島に三男 吉房を来島に分立させ三島村上水軍が誕生するわけです,因島は土生の長崎に出張りの小高い山に長崎城を造った島前に菩提寺の長源寺を建てた,田熊の村上はこの系統の村上です。 簡単ないきさつは,以上ですがこの中にも異説がたくさんあります,誰も見た者は居ないのですから、要約してこの辺で打ち切ります。


竹島伝説

                             
                    竹島  市役所の海岸側から見たところ      この写真はイメージです   
    

因島の歴史(伝説を含む)
田熊港の沖に小さい島がありますがここは島前城の出城ガ有ったと伝えられています岩城島の亀山城主村上修理亮敬吉の長男竹島十兵衛が居住していた。次男の丹後守村上四郎左衛門尉直吉は学問水練が達者なため敬吉の跡取として島前城に居住していた「情報センター市民会館の有る一帯」この辺を長源寺と呼んでいます。島前城と因島の村上の菩提寺が有ったからです。 その直吉が兄十兵衛に毒殺されると言う事件がおきた。才能のある直吉の室は村上左近隆重の娘で備中笠岡の城主村上弾正景広や浅口郡佐方の城主村上刑部武満の妹でした しかも因島村上の総大将備中守村上吉充の姪にあたる人でした悪い事に妙齢な美人ときている。日ごろ心よく思っていなかった十兵衛が嫉妬し直吉を毒殺してしまうのであるそのご未亡人に言い寄るが十年の後貞節を貫きとうし亡くなるのである。その墓は田熊の浄土寺に比翼塚があります 一巻のおわり


          法楽踊り
因島市 椋の浦町 外浦町 愛媛県 魚島 等で踊られているようです本来は出陣 凱旋の折に踊られたようです 最近は盆踊りに使われておどられていますが それは良いとしてここから勘違いが生まれたらしい と言うのは踊りながら 「なんまんでーぼー」と太鼓方と踊り子と掛け合いで真剣を掲げて跳ね踊りをしますが ある学者によるとこれは南無阿弥陀仏といつていると言われています これは間違いで村上水軍は真宗等ではなく 一貫して真言宗であった なみあむだぶつとは言いません 私は小さい時から八幡大菩薩は なんまんだんぼ と言うと教えられました これを思いだし戦の神様は 真言宗の理趣経に八大菩薩がありました おられましたというのか この菩薩が後で 神となり八幡宮に祭られます 前出の村上敬吉は岩城 田熊の八幡宮を建立しました。