栗山主税(ちから)さん

因島で栗山姓は珍しいですね、とよく言われます。

育ちは因島ですが、両親・身内・親戚のほとんどが大阪。 我が家はいわゆる日立造船の“転勤組”で、大阪桜島工場にいた父が因島工場へ転勤になったことが縁でした。 僕は大阪生まれですが3歳下の妹は因島生まれ。 一家4人、三庄の神田社宅で13年過ごし、同・三庄の千守へ引っ越して5年過ごした後、僕の高校卒業を機に一家で大阪へ帰ることとなりました。

僕の職業はカメラマンです。 中学3年のときに父に見せてもらった一眼レフがきっかけで、撮影の醍醐味から写真が出来上がるメカニズムに衝撃を覚え、若干15歳にして自身の進路と天職をここに見出しました。 高校に進学すると写真部に所属し、撮影と現像に明け暮れ、のちにカメラマンたる道を進むべくプロセスを模索する日々を過ごしました。 既に勉学は放棄、母が何度も学校から呼び出されるほどに成績も就学態度も悪く、今思えば相当な問題児だったことでしょう。 在学中は専ら学校の写真係で、一部の先生方は良き理解者だったこともあり、多分に温情(?)を受けた高校生活だったと思います。

写真はお金がかかります。 高校当時から様々な賞に出しその賞金で遣り繰りしていくわけですが、例えば賞のテーマを発注クライアントに見立て、この賞は一体どんな写真を必要としているのか或いは喜ばせることができるのかを常に最優先に考え、卒業する頃には末席でも確実に賞を獲りにいけるようになりました。 カメラを始めて37年、ひょっとするとこの時期が撮影に対して一番真剣に取り組んでいたかもしれません。

そんな不真面目な(?)高校生活を、両親は反対もせず暖かく見守ってくれました。 日立造船の大合理化を受けた父はのちに因島ボイラー(現・アイメックス)を起ち上げ、大阪営業所の稼働と僕の高校卒業を機に一家で大阪に“戻る”形で引っ越しました。 大学進学という選択肢は無かったため写真の専門学校に2年間通うこととなり、既に高校時代に自身でやってきた事の復習程度の収穫しかなかったものの、真面目に通い成績も上位だったためか、ある撮影プロダクションから声が掛かりました。「読売テレビでカメラマンをやらないか?」と。 20歳の春の事でした。

自分が思い描いていた計画通りにプロデビューを果たし、以降ひたすら場数を増やし経験を積んでいくこととなります。

プロデビューの頃

主戦場は大阪の読売テレビ。 撮影内容の多くは番組宣伝用の写真撮影であり、スタジオ収録・ロケ現場をメインにイベント収録・スポーツ中継・報道中継・事件・事故・災害から舞台・コンサート・社内記録・取材・商品撮影・社員証顔写真に至るまで非常に多岐に渡り、それらの現場の数だけ撮影スキルも要求され、鍛えられ、今の自分に至ります。

29歳で家を建て、結婚。 31歳で長男が産まれ、36歳で次男が産まれ、一家4人で暮らしています。 40歳を迎える頃から管理職になり、現場一筋で生きていきたい自分の気持ちは会社組織の中では立ち行かなくなり、入社から26年経った46歳で退職を決め、生涯現役の誓いを胸にフリーランスに転向、翌年に栗山撮影事務所を開業しました。

現在51歳、これまでの経験と人脈を活かして撮影業務を継続している傍らで、作家として日本中の風景を撮り回ることをライフワークとしています。

現在の栗山さん

フリー転向を機に故郷因島も頻繁に撮影するようになり、春の桜・夏の花火・秋の紅葉など、この約5年で因島の四季をかなり撮り溜めました。 昨夏には因島水軍まつりを初めて撮影し、因島村上海賊のポスター製作も手掛けました。 昨秋は因島では初めて講演会と撮影会を開催し、自分が歩んできた撮影人生が微力ながらも故郷因島のために役立てられたと自負しています。 これからも因島を撮り続けていきますので、もし見かけられたら気軽に声をかけてください。

講演会の様子

大阪に移住して34年が経ちはるかにこちらの方が長くなりましたが、自身の人格形成も含め心の中にあるのはやはり因島です。 そして卒業アルバムの表紙にもこう書かれています。「ふるさとは遠くにありて想ふもの」

 

栗山主税(くりやまちから)
栗山撮影事務所(大阪府枚方市)
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因島高校同窓会会報誌34号掲載

34号(2024年2月20日発行)