2007年4月28日 / 最終更新日 : 2007年4月28日 times 空襲の子 空襲の子【34】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 楠見三兄弟の死(上) 因島空襲により日立造船因島工場で亡くなった楠見高行さんの遺族である楠見啓二さんの三庄町のご自宅をようやく訪ねることができた。遅れたのはすべてわたしのためらいのせいである。すでにご親族や関係者を通じて啓二さんのことを知っ […]
2007年4月14日 / 最終更新日 : 2007年4月14日 times 空襲の子 空襲の子【32】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 岡野宣行さんの無念(上) 昭和20年7月28日、海軍の軍務に就いていた岡野宣行さんは、日立造船因島工場に勤めていた父・孫三郎さん(48)が空襲で死んだことを知らなかった。戦局の厳しさが増すなかで、家人も宣行さんが生きているとは思わず、連絡をしな […]
2007年4月7日 / 最終更新日 : 2007年4月7日 times 空襲の子 空襲の子【31】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 小丸正人さんに捧ぐ(完) 故小丸正人さんは、コミヱさんとの間に二人の子どもを遺した。次女の祥子さんは、筆者と世代としては比較的近い。そこでご夫妻に家庭内で子どもさんやお孫さんに、父・正人さんの死をどのように伝えているのか、お尋ねした。これは筆者 […]
2007年3月31日 / 最終更新日 : 2007年3月31日 times 空襲の子 空襲の子【30】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 小丸正人さんに捧ぐ(下) その日、長女・由紀子さんは戸板で運ばれる人を土生町で見た。土生の祖父のところに行かされていたのだろう。もちろんそれが、父であるかどうかは分らなかった。亡骸が自宅に着いたのは夕方のころ。仏壇の前に横たわる夫は死んだとは思 […]
2007年3月24日 / 最終更新日 : 2007年3月24日 times 空襲の子 空襲の子【29】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 小丸正人さんに捧ぐ(中) 小丸正人さんがコミヱさんと結婚したのは昭和13年10月14日である。夫25歳、妻21歳。コミヱさんは「理想的な結婚だった」と微笑みながら振り返る。やがて昭和15年に長女・由紀子さんが、17年には次女・祥子さんが誕生する […]
2007年3月17日 / 最終更新日 : 2007年3月17日 times 空襲の子 空襲の子【28】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 小丸正人さんに捧ぐ(上) 田熊町の小丸正人さんは昭和20年7月28日、米軍の空襲により、日立造船因島工場内の職場近くで亡くなった。定盤工場の前にあった仮設の防空壕が爆撃で直撃され、そのなかで圧死したのだ。正人さんは大正2年3月27日生まれ32歳 […]
2007年3月10日 / 最終更新日 : 2007年3月10日 times 空襲の子 空襲の子【27】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 尾商同期の想い 3月7日の夕刻、故阿部正さんの墓に参ることができた。尾道市因島土生町にある臨済宗・対潮院の小高い丘のほぼ頂上にそれはあった。阿部さんがそこに永眠されているのを知ったのは昨年7月のことだった。墓碑には、 正岳良俊居士 長 […]
2007年3月3日 / 最終更新日 : 2007年3月3日 times 空襲の子 空襲の子【26】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 故阿部正さん 土生は戦場だった。2回にわたって掲載した常盤正和さんの追悼文「阿部正君の死」を読んでの感想である。土生町から三庄町につづく日立造船因島工場、土生町のほぼ全域、7区・8区を中心にした三庄町は、激しい空爆と機銃掃射に襲われ […]
2007年2月24日 / 最終更新日 : 2007年2月24日 times 空襲の子 空襲の子【25】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 阿部正君の死(続) 私達の職場は北と西側が煉瓦積で、東と南が窓になっている建物でした。煉瓦の壁が30センチ位あり、これなら大丈夫と思って北、西の隅へ急いだ。一番奥へ阿部君、続いて私、そして柏原大典、須田禎之、藤原進治、柿原貢の諸君が必死の […]
2007年2月17日 / 最終更新日 : 2007年2月17日 times 空襲の子 空襲の子【24】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 阿部正君の死 わたしは昨年7月、土生町出身の尾道商業学校学徒動員生の阿部正さんが日立造船因島工場で空襲をうけて亡くなり、「阿部正君の死」と題する追悼文が同校同窓会誌に掲載されていることを知った。執筆されたのは常盤正和さん(48回生) […]
2007年2月10日 / 最終更新日 : 2007年2月10日 times 空襲の子 空襲の子【23】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 宮地茂・大学局長のこと 宮地茂・元福山大学総長(1914~2005)=写真=は因島土生町出身で、尾道名誉市民、福山名誉市民である。広島大学に在籍していた23歳のときわたしは、中国新聞社の対談企画で印象的な出会いをした。東大・日大をはじめ大学闘 […]
2007年2月3日 / 最終更新日 : 2015年6月10日 times 因島椋浦町 空襲の子【22】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 椋浦小学校廃校のこと わたしは、御調郡三庄町で生まれたが、因島市立椋浦小学校の卒業生である。昭和21年に父の松本隆雄が椋浦小学校の校長に着任するとともにわが家族は椋浦町に引っ越したが、2歳にも満たないわたしだけは三庄町に住む祖父母に育てられた […]
2007年1月27日 / 最終更新日 : 2007年1月27日 times 空襲の子 空襲の子【21】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 三庄小閉校問題に寄せて わたしの旧姓は松本で、父隆雄と母清子の三男として昭和19年10月11日、御調郡三庄町神田に生まれた。現在の青木姓は高校3年の時に、父の後妻として青木行が入籍するかわりに継いだものである。現在、両家を直接継ぐ者で因島在住 […]
2007年1月20日 / 最終更新日 : 2007年1月20日 times 空襲の子 空襲の子【20】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 報道する者の責任 すでに述べたように、まったく個人的な体験と発想で因島空襲の調査活動を始めた。しかしまもなく向き合った対象は、個人で立ち向かうにはあまりにも巨大で深刻なものであることを、思い知らされることになる。そこで新聞記者という職業 […]
2007年1月13日 / 最終更新日 : 2007年1月13日 times 空襲の子 空襲の子【19】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 ひとつの戦争責任論 昨年12月27日、わたしの妻の母、埼玉県川越市の小島すみ江(享年87歳)がなくなった。妻は1週間ほどの里帰りとなったが、妻が生れた細川家の姉から、東京空襲で身内が3人亡くなったことを聞いて帰ってきた。江東区亀戸に住んで […]
2006年12月23日 / 最終更新日 : 2006年12月23日 times 空襲の子 空襲の子【18】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 証言 星野正雄さん(完) 前号の記述について星野さんご自身から間違いを指摘された。星野さんが身に付けた特殊技能を「定盤(じょうばん)」と取材したにもかかわらず、「旋盤」と書いてしまった。広辞苑には「表面を正しく平滑に仕上げた鋳鉄製の平面盤。この […]
2006年12月16日 / 最終更新日 : 2006年12月16日 times 空襲の子 空襲の子【17】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 証言 星野正雄さん(下) 星野正雄さんに本紙をお渡したところ読んでいただき、「子や孫にもしっかり読ませますから」との伝言をいただいた。こうしてわたしをいつも励ましてくれる。62年前の空襲の調査という、目標に掲げたものの見通しのたたない課題を前に […]
2006年12月9日 / 最終更新日 : 2006年12月9日 times 空襲の子 空襲の子【16】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 証言 星野正雄さん(中) お気づきになった方もいらっしゃると思うが、本連載バックナンバー【15】の星野正雄さんが体験した日立工場の空襲とバックナンバー【14】で紹介した故巻幡進一さんのお話は、同じ場面である。防空壕内での犠牲者としては因島工場最 […]
2006年12月2日 / 最終更新日 : 2006年12月2日 times 空襲の子 空襲の子【15】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 証言 星野正雄さん(上) 因島中庄町の星野正雄さん(79)は、因島空襲の調査活動をつづけるわたしの心の支えである。日立因島工場の定盤工であった星野さんの職場は7月28日、爆弾の直撃をうけた。7人が死亡し、自身も間一髪助かった。本紙連載のサブタイ […]
2006年11月25日 / 最終更新日 : 2006年11月25日 times 空襲の子 空襲の子【14】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 追悼巻幡進一様 43年と8カ月にわたって造船にかかわってこられた巻幡進一さん(因島土生町郷区)が9月21日、入院先の因島医師会病院でお亡くなりになった。享年82歳。わたしが因島空襲の取材にご自宅をお訪ねしたのは8月初めのことで、再会を […]
2006年11月11日 / 最終更新日 : 2006年11月11日 times 空襲の子 空襲の子【12】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 県戦災史の中の因島 青木忠 先日、因島田熊町のたなか書店の田中伸幸氏から貴重な資料の提供を受けた。昭和63年に発行された「広島県戦災史」(編集者・広島県、発行所・第一法規出版)=写真=で4700円もする高価なものである。 たまたま書店に […]
2006年11月4日 / 最終更新日 : 2006年11月4日 times 空襲の子 空襲の子【11】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 もう時間がない わたしは空襲の子である。7月28日の空襲に直撃されて家は吹飛び、ゼロ歳のわたしは下敷きとなり死亡したかと思われたが、泥まみれのまま救出されたという。したがって生家はもうない。それから62年間生きてきたわけだが結局、その […]
2006年10月28日 / 最終更新日 : 2006年10月28日 times 空襲の子 空襲の子【10】因島空襲と青春群像 土生で何が起きたか(下)ついに映像になった 青木忠 NHK広島放送局は今年7月26日、「因島空襲―新たな証言」を放映した。わたしは固唾をのんで画面を見つめた。「ついに土生空襲の映像が生れたのだ」と思った。なすすべもなく61年間を過ごしてきてしまったが、やっとここ […]
2006年10月21日 / 最終更新日 : 2006年10月21日 times 空襲の子 空襲の子【9】因島空襲と青春群像 土生で何が起きたか(上)その日に戻りたい 青木 忠 「その日にもどりたい」、それが痛切なわたしの願いとなった。わたしがもしも、昭和年のころ赤子でなくてせめて少年だったらわたしは何を感じ、何をしていただろうか。軍国少年になっていただろうか。その時代を生きていた […]
2006年10月14日 / 最終更新日 : 2006年10月14日 times 空襲の子 空襲の子【8】因島空襲と青春群像 呉・福山・因島 瀬戸内は戦場だった 青木 忠 戦後60年を迎えた昨年は、わたしにふたつの点で転機となった。ひとつは、前号で述べたように、空襲犠牲者のご遺族に初めてお会いすることができたことである。ふたつ目は、因島空襲の基本的な性格についての疑問がとけたこ […]
2006年10月7日 / 最終更新日 : 2006年10月7日 times 空襲の子 空襲の子【7】因島空襲と青春群像 終りなき戦争 遺族との出会い 青木 忠 戦後60年を迎えた昨年、わたしは初めて因島空襲の犠牲者のご遺族とお会いすることができた。三庄町八区の宮林積さん(71)である。空襲を受けたわたしの生家から宮林さんのご自宅は1000メートルあまりの距離であろう […]
2006年9月30日 / 最終更新日 : 2006年9月30日 times 空襲の子 空襲の子【6】因島空襲と青春群像 報道が伝えたもの 映像が残っていた 青木忠 「因島空襲の写ったフィルムを持っているよ」という電話には驚いた。今年の7月のことである。やがてその電話の主である尾道市向島町在住の花咲清康さんから、ビデオとDVDが届いた。また、雑誌に掲載された因島空襲の写真が […]
2006年9月23日 / 最終更新日 : 2006年9月23日 times 空襲の子 空襲の子【5】因島空襲と青春群像 57年目の追悼行動 歌で伝えよう 青木 忠 空襲の犠牲者への追悼の試みは、因島三庄町7区森神社下にある防空壕前のコンサートで始まった。およそ100人の参加者は、ピアノに合わせて歌うことで追悼の想いを伝えようとした。2002年(平成14年)7月28日のこ […]
2006年9月16日 / 最終更新日 : 2006年9月16日 times 空襲の子 空襲の子【4】因島空襲と青春群像 封印された空襲(下)父への詫び状 青木忠 わたしは、父から空襲体験を継承することに失敗した。素直にそれができていればこんなに苦労することはなかったのに、大きく空襲の実態に迫ることができたのに、と悔やまれてならない。誰が封印したのか。0歳の身で空襲を体験 […]
2006年9月9日 / 最終更新日 : 2006年9月9日 times 空襲の子 空襲の子【3】因島空襲と青春群像 封印された空襲(中)「因島市史」について 青木 忠 実は、因島空襲を「封印された空襲」と呼んだのはわたしではない。昨年7月に特集「語り継ぐ空襲」・因島空襲の取材のために因島を訪れたNHK広島放送局・尾道報道室の安井俊樹記者が、わたしの「資料がほとんど残されてお […]