2012年8月4日 / 最終更新日 : 2012年8月4日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【33】十年間の調査報告 因島空襲と行政(4) 戦争―敗戦―占領の過程は、日本にとって最大の歴史的試練であった。敗戦を三庄国民学校五年生で迎えた檀上昌也さんは、「因の島覚え書」に次のように記している。
2012年7月21日 / 最終更新日 : 2012年7月21日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【32】十年間の調査報告 因島空襲と行政(3) 占領軍最高司令官マッカーサーの亡霊に畏縮した、因島市史編者の青木茂氏は、「…多くの施設を破壊されたが、鋭意回復、整備、今日に至ったものである」であるとし、空襲とその後の因島の歴史をねつ造したのである。
2012年7月14日 / 最終更新日 : 2012年7月14日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【31】十年間の調査報告 因島空襲と行政(2) 「因島市」の編者の青木茂氏は、1898年(明治31)3月、因島椋浦町で生まれた。敗戦当時、47歳くらいである。まさしく激動の近現代を生きた一人である。
2012年7月7日 / 最終更新日 : 2012年7月7日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【29】十年間の調査報告 因島空襲と行政(1) 因島市は、「因島市史」を発行することで因島空襲の事実を抹消し、地域の近現代史を歪めてしまった。歴史研究にたずさわる者が、研究者の名において歴史をねつ造することが、果たして許されることであろうか。
2012年6月30日 / 最終更新日 : 2012年6月30日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【29】十年間の調査報告 防空壕の今(9) 空襲調査の当初から、奇妙な事実に気付いた。同じ因島に当時住んでいた人のなかでも、空襲の事実認識にバラつきがあるということである。
2012年6月23日 / 最終更新日 : 2012年6月23日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【28】十年間の調査報告 防空壕の今(8) 大戦末に戦場となった三庄町の一帯は戦後、すっかり変貌している。そこに、造船所があったことさえ伺えない風景である。
2012年6月23日 / 最終更新日 : 2012年6月23日 times 空襲の子 因島空襲67周年に寄せて地域史の真実に目覚める 明治、大正、昭和、平成と近現代を因島は、造船業とともに歩んできた。尾道市は自らを海事都市と呼び因島と近隣諸島は、今もなお造船の島である。 慰霊祭(2007年7月28日)
2012年6月16日 / 最終更新日 : 2012年6月16日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【27】十年間の調査報告 防空壕の今(7) 三庄町の塚ヶ浜、神田、小用にかけて展開していた日立造船三庄工場は姿を消したが、その周辺の防空壕跡は残っている。そして、それが今なお、その一帯が紛れもなく戦場であったことを物語っている。
2012年6月9日 / 最終更新日 : 2012年6月9日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【26】十年間の調査報告 防空壕の今(6) 「ようけあるじゃろう」 三庄町家老渡地区の防空壕を調査している際に、声をかけてくれた人がいた。 三庄町 日立造船因島工場は、土生町から三庄町家老渡(九区)にかけて展開している。町の境目は、ユニバーサル造船2号ドックと3 […]
2012年6月2日 / 最終更新日 : 2012年6月2日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【25】十年間の調査報告 防空壕の今(5) 土生中学校の生徒がまとめた、「語り伝えよう因島の戦争体験」と題する手作りのパンフレットがある。すっかり薄茶色に変色し時代を感じさせる。私が見た、戦時下の土生町を調べた唯一のものだ。「1982年11月18日 土生中学校 1 […]
2012年5月26日 / 最終更新日 : 2012年5月26日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【24】十年間の調査報告 防空壕の今(4) 因島図書館に所蔵されている「重井町史年表」(平成5年再編、1993、重井町文化財協会)に次の記述がある。「昭和23 1948 軍用地民間へ払下げ」。
2012年5月19日 / 最終更新日 : 2012年5月19日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【23】十年間の調査報告 防空壕の今(3) 当時、因島市文化財保護委員長、同文化財協会長であった故中島忠由氏が1981年6月に著した「因島市百年史略年表」の1944年(昭和19)の次の記述を、何度も読み直してみる。
2012年5月12日 / 最終更新日 : 2012年5月12日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【22】十年間の調査報告 防空壕の今(2) 防空壕の調査をしようと思うと必ず脳裏をよぎる事件がある。国会でも問題となったが、2005年4月9日、鹿児島市立武岡中学校の2年生男子生徒4人が防空壕内で死亡した。壕内でたき火をして一酸化炭素中毒にかかったという。
2012年5月5日 / 最終更新日 : 2012年5月5日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【21】十年間の調査報告 防空壕の今(1) あの日、全身を包んだ初めての感覚を決して忘れはしないだろう。 2010年3月4日、因島の防空壕調査が始まった。岡山市を本社とする山陽新聞はカラー写真を掲載し、次のように報じた。
2012年4月28日 / 最終更新日 : 2012年4月28日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【20】十年間の調査報告 三庄町の真実(12) 今から10年前の2002年7月下旬、生まれ故郷の現存する防空壕の前にたたずんでいた。中国新聞の取材を受けるためである。すぐ近くには、実家である松本家の墓所があり、父母をはじめ先祖が眠っている。私は、空襲の調査を開始する […]
2012年4月21日 / 最終更新日 : 2012年4月21日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【19】十年間の調査報告 三庄町の真実(11) 「お母さんやお婆さんが身を挺して守ってくれたから、今生きていることを忘れるな」。これが実質的な父の遺言になった。高校3年時に松本家から青木家に養子に入った私が、実家の行く末に苛立ち、「松本家のことは関係ないということに […]
2012年4月14日 / 最終更新日 : 2012年4月14日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【18】十年間の調査報告 三庄町の真実(10) 実父は生前、三庄小学校の教師時代の話を私にしたことがなかった。例外がひとつある。亡くなる数年前のことであるが、ある日突然、同居していた私に「三庄小学校は相撲が盛んだった」と語りかけ、その当時使っていた行司の軍杯を見せた […]
2012年4月7日 / 最終更新日 : 2012年4月7日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【17】十年間の調査報告 三庄町の真実(9) この連載で実母清子について3回にわたり書いた。では実父松本隆雄にとってその時代は、どのようなものであったのか。同じように「空襲の子」の立場から想いを馳せてみたい。
2012年3月31日 / 最終更新日 : 2012年3月31日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【16】十年間の調査報告 三庄町の真実(8) 因島の近現代史における最大の事件とも言える三庄への空襲の悲劇は、なぜか「因島市史」おいて一切ふれられていない。笑止千万と言わざるを得ない。
2012年3月17日 / 最終更新日 : 2012年3月17日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【15】十年間の調査報告 三庄町の真実(7) 空襲調査に本格的に取り組み始めた2002年の夏、中学生のころからよく知っていた、三庄町の魚屋のおばちゃんから次のような話を聞いた。「あの日は暑かった。工場のすぐそばの防空壕のなかに寝かされている三人の兵隊の死体を見た」 […]
2012年3月10日 / 最終更新日 : 2012年3月10日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【14】十年間の調査報告 三庄町の真実(6) 檀上昌也少年の三庄空襲の記憶は、私をドキリとさせる結末で終わっている。
2012年2月25日 / 最終更新日 : 2012年2月25日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【12】十年間の調査報告 三庄町の真実(4) 1945年(昭和20)7月28日、三庄町はどのように空襲に見舞われたのか、可能なかぎり再現したい。 アメリカ軍は、土生町から三庄町にかけて展開する日立造船因島工場と三庄分工場を、ひとつの工場として攻撃を加えた。「第2 […]
2012年2月11日 / 最終更新日 : 2012年2月11日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【11】十年間の調査報告 三庄町の真実(3) 一枚の「空襲写真」が土生の工場ではなく、わが身を襲った三庄町のものであるというまぎれもない事実は、私の内面を激しくえぐった。個人の感慨という面でもそうであり、空襲調査という面ではなおさらそうであった。
2012年2月4日 / 最終更新日 : 2015年6月11日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【10】十年間の調査報告 三庄町の真実(2) 私は昨年師走、一枚の写真をめぐっててんてこ舞いだった。日立造船因島工場への空襲のものと思い込み、公表までしたにもかかわらず、それが三庄工場への攻撃の写真であることが判明したからだ。そのことを毎日新聞(2011年12年8日 […]
2012年1月28日 / 最終更新日 : 2012年1月28日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【9】十年間の調査報告 三庄町の真実(1) 時代は大きく飛んで2011年秋、私は生まれ故郷であり、空襲被災地である三庄町神田地区にいた。ここから始まった空襲調査活動がまもなく10年目を迎えようとしている時に、この町を襲った米軍による空襲の全体像を確定的に描こうと […]
2012年1月21日 / 最終更新日 : 2012年1月21日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【8】十年間の調査報告 時代の縮図、因島(6) 幼少期の私には、空襲を受けた三庄町について重要な記憶の欠落がある。先日、三庄町で生まれ育った同世代の人物と会話していてそれを再確認した。
2011年12月24日 / 最終更新日 : 2011年12月24日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【6】十年間の調査報告 時代の縮図、因島(4) 一歳半ばでの別離というなかで母子はどのようにして絆を作り上げようとしたのだろうか。ときたま母が私の暮らす実家にもどってきたり、私が椋浦の母のもとを訪ねたようだ。母が実家に里帰りしたときの様子が記されている。
2011年12月10日 / 最終更新日 : 2011年12月10日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【4】十年間の調査報告 時代の縮図、因島(2) 自らが生まれ育った故郷を時代のなかで捉え直すことは、容易なことではない。空襲の調査を開始する以前の私にとって、因島は単なる生まれ故郷にしか過ぎなかった。生まれてまもなく空襲を受けて死にかけたことを知らされたのは小学生の […]
2011年12月3日 / 最終更新日 : 2011年12月3日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【3】十年間の調査報告 時代の縮図、因島(1) 空襲の調査をつづければつづけるほど痛感したのは、因島の発展が日本の近現代史と深く結びついており、それが時代の縮図としてあるということである。