2016年2月6日 / 最終更新日 : 2016年2月21日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【終】終章 人生の本当の始まり―昭和20年7月28日に舞い戻ることしかないのである。そうすることで、真実のおのれを発見し、人生をまっとうできるのである。 生まれて間もないころの空襲体験を隠し、忘れ去る選択肢もあったかもしれない。しか […]
2016年1月30日 / 最終更新日 : 2016年2月8日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【45】第七章 君たちへ 最近の私には、父の遺言に応えつつあるという自負が芽生えている。 あの時の怒号にも似た父の叫びを繰り返し思い出す。「お前が今生きておれるのは、お母ちゃんとお祖母さんが身を挺してお前を守ってくれたからだ。それを忘れるな」 明 […]
2016年1月23日 / 最終更新日 : 2016年2月6日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【44】第七章 君たちへ 校長として父は全校児童と保護者を前にこう言った。 「忠君は空襲で死にかけましたが今ここまで大きくなりました」 私が通っていた小学校は全校児童およそ50人で複式学級を採用していた。私の学年は確か10人だった。会場である教室 […]
2016年1月16日 / 最終更新日 : 2016年1月23日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【43】第七章 君たちへ ノートに記したメモの赤色に父のどのような想いが込められているのか。 おそらく空襲直後父は、教員として児童たちに被害が及んでいないか事態の掌握に追われており、自宅の惨状を想像できなかったに違いない。 現場に到着したころには […]
2016年1月9日 / 最終更新日 : 2016年1月23日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【42】第七章 君たちへ 仲宗根一家の悲劇を調べて行けば行くほど、なぜその記録が残されていなかったのか、残念の想いが募るばかりである。その正反対の事例を知ってからなおさらそうである。 宮崎県の西小林市立西小林小学校の校庭に「殉難者の碑」がある。そ […]
2015年12月26日 / 最終更新日 : 2016年1月12日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【41】第七章 君たちへ 「カキノ屋」の近くに立っていた、ひとりの大人が、「助けてくれ」と叫んでいるのは、そこで働いていた外国人だと言ったという。全く予期してなかったことである。「外国人」という言葉に私は強く反応した。 その大人が言う外国人とは誰 […]
2015年12月26日 / 最終更新日 : 2016年1月12日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【40】第七章 君たちへ 70年目の空襲記念日の前後は、仲宗根さん一家の調査にとって決定的な時期であった。特別に関心が集中しているその時期に情報が集められないとしたら、調査にひとつの区切りをつけねばならないからだ。 6月初旬、調査開始以来ずっと聞 […]
2015年12月12日 / 最終更新日 : 2015年12月23日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【38】第七章 君たちへ 空襲から70年。誰よりも娘と息子にありのままの父としての姿を伝えたかった。父は何に必死になっているのか、ふたりの目前で示したかった。 6月の初旬のことだろうか、広島市に本社を持つ地方紙である中国新聞の記者から電話が入った […]
2015年12月5日 / 最終更新日 : 2015年12月19日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【37】第六章 最後の旅路 5月26日の野原さんのメールの一文は私を驚かせた。私が書こうとしていた内容が、先んじて提示されていたからである。 滞っていた物事が突然動き出すことがあります。沖縄と関わったことも、その一つでしょうか。 野原さんの問いかけ […]
2015年11月28日 / 最終更新日 : 2015年12月11日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【36】第六章 最後の旅路 連載の回数が増すごとに野原さんとの交流は深まっていった。私からそのことを強く望んだ。 今年の4月18日の野原さんのメール。 連載7を読みました。そのころから青木さんは沖縄に縁があったのですね。それが現在まで続いているので […]
2015年11月21日 / 最終更新日 : 2015年11月30日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【35】第六章 最後の旅路 多くの人達に倣って人生を旅に例えるなら、きっと今の私は、最後の旅路の渦中にいるのであろう。私の歩みは、落ち着きのない、ただ慌しい歳月の連続であったように思える。 ところが現在、立ち止って過去をふり返って考える機会が与えら […]
2015年11月14日 / 最終更新日 : 2015年11月27日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【34】第六章 最後の旅路 那覇から因島に帰った翌日、仲宗根さん一家が亡くなった現場を訪れた。対馬丸記念館の野原淳子さんからことづかった琉球菓子を仲宗根さんに供えるためである。爆撃の犠牲になった幼子5人を想ってのことで、その菓子は「ちんすこう」と「 […]
2015年11月7日 / 最終更新日 : 2015年11月16日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【33】第六章 最後の旅路 沖縄訪問で対馬丸記念会の理事、学芸員との語り合いの機会を持てたのが、大きな収穫であった。沖縄戦体験、沖縄返還運動、対馬丸に関する調査活動など話題は多岐にわたった。 今年の空襲犠牲者追悼行事へのメッセージを外間邦子理事に依 […]
2015年10月31日 / 最終更新日 : 2015年11月9日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【32】第六章 最後の旅路 沖縄行きは、偶然だが沖縄県知事選挙と重なった。最終日が選挙の告示日だった。宿泊したホテル近くに現職の事務所があり、せわしく動く運動員の姿が見えた。「菅原文太氏来る」のポスターが貼られていた。新人候補の応援のためである。 […]
2015年10月24日 / 最終更新日 : 2015年11月4日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【31】第六章 最後の旅路 私が頻繁に訪れていたころとくらべ那覇は大きく変わっていた。その変容ぶりに当初、面食らった。そのことを思い知らされたのは、那覇空港から対馬丸記念館への道のりを調べている時であった。 私は三十年前と同様、空港から那覇中心部へ […]
2015年10月17日 / 最終更新日 : 2015年10月26日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【29】第六章 最後の旅路 初めての仲宗根一家追悼行事の直後、沖縄行きを決心した。三庄空襲で亡くなった一家の足跡を探すためである。しかし、物事は単純には運ばなかった。 最初私は、対馬丸記念館の野原淳子さんを因島に招こうとした。7月22日付メールで記 […]
2015年10月10日 / 最終更新日 : 2015年10月26日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【28】第六章 最後の旅路 昨年の7月28日、仲宗根さんの家族が死亡し、赤子の私が生埋めになった場所に立つことにした。悲劇から69年目にして初めての仲宗根一家への慰霊行事である。尾道市と市議会関係者、地元の人たちらが出席した。慰霊の言葉を私が捧げた […]
2015年10月3日 / 最終更新日 : 2015年10月17日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【28】第五章 運命の電話 人間は自らが生まれ育ったところに絶えず戻ろうと努力をするのだろうか。そうした営みが人生行路というものなのだろうか。 最近、生まれ故郷の年長者に思わず訊いてみた。 「5人の子供のなかで自分だけが生まれたところに帰ってきたと […]
2015年9月26日 / 最終更新日 : 2015年10月8日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【27】第五章 運命の電話 慰霊行事の直前に訪れた夫妻からの聞き取りによって、仲宗根さん一家の実像がさらに明らかになった。 ご主人は、当時地元の小学校の教師をしていた父の教え子である。生前の父と畑仕事で出会うたびに互いの空襲体験を語り合ったという。 […]
2015年9月12日 / 最終更新日 : 2015年10月1日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【26】第五章 運命の電話 空襲直後、長姉は母親代わりだった。 彼女は10歳、国民学校(小学校)4年生である。母と祖母は空襲で負傷した。生後10カ月の私はいつも長姉の背中にいた。 そのことを思い出して電話を入れたのだが、本当のところはそうしたくなか […]
2015年9月5日 / 最終更新日 : 2015年9月13日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【25】第五章 運命の電話 私に再び気力がみなぎり始めた。始まった対馬丸記念館の野原さんとの交流の力は大きかった。 昭和53年(1978)に対馬丸遭難者遺族会によって発行された「記録と証言 あゝ学童疎開船対馬丸」が届いた。それには野原さんの手紙が添 […]
2015年8月29日 / 最終更新日 : 2015年9月13日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【24】第五章 運命の電話 (3)対馬丸撃沈事件の生存者数(原則は「不明」としたうえで、おおよその目安として次の数字が記されている) 漁船・哨戒艇により救助された疎開者 一七七名 船員・砲兵 八二名 奄美大島に漂着して救助された人 二一名 合計 二 […]
2015年8月22日 / 最終更新日 : 2015年9月2日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【23】第五章 運命の電話 一本の電話がこんなに私の行先を左右するなんて予想もしなかった。昨年三月にかけた、沖縄の対馬丸記念館への電話はそのような意味を持っていた。 「初めてお電話いたしますが、広島県尾道市因島の青木というものです」 あまり体験した […]
2015年8月15日 / 最終更新日 : 2015年8月21日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【22】第四章 宿命なのか 生まれて間もなく私に何があったのか。機会があれば調べてみたいと思うようになった。夢にも思わなかったチャンスが訪れた。生まれ故郷に住むことになったのだ。私に定められた運命の糸をたぐり寄せる時がきたのである。 戦争によって生 […]
2015年7月25日 / 最終更新日 : 2015年7月30日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【21】第四章 宿命なのか ベトナム戦争下の米原子力潜水艦の初寄港である。ベトナム戦争への日本の加担強化は明らかであった。加えて、放射能汚染に対する危機感が学生内に高まった。 私のキャンパスデビューは鮮やかであった。一気にリーダーになった。一気呵成 […]
2015年7月18日 / 最終更新日 : 2015年7月30日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【20】第四章 宿命なのか 広島大学千田町キャンパス正門で私に何が起きたのか。その真前にある広島赤十字・原爆病院。そこでは今なお被爆者が闘病生活を送り、力尽きて亡くなる患者がいるというのである。 瀬戸内の島からやってきた18歳の私はそうした事実を受 […]
2015年7月11日 / 最終更新日 : 2015年7月21日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【19】第四章 宿命なのか 私の初恋は小学5年生の時である。 ほぼ同じ時期に政治と社会への目覚めが始まった。 私は最上級生になった。通う小学校は当時、NHKのラジオ放送を活用した視聴覚教育を重視していた。そのなかでも私の好きだったのは、「世界と日本 […]
2015年7月4日 / 最終更新日 : 2015年7月13日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【18】第四章 宿命なのか 長姉の話によれば祖父は、私の誕生をとても喜んだという。膝のうえに私をのせていつもニコニコしていた。祖父の私に与えた影響は大きい。 祖父は明治12年、福島県岩瀬郡鏡石村の柳沼久吉・シケの四男として生まれた。船に乗り機関長に […]
2015年6月27日 / 最終更新日 : 2015年7月7日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【17】第四章 宿命なのか 1945年7月28日午前10時25分頃、因島三庄町を襲った爆撃が私の運命を決めた。その時私は生後十カ月、一度は死にそして蘇った。私はまごうことなき「空襲の子」である。 それ以来私は、一見朗らかな素直な子供のようで実は稀代 […]
2015年6月20日 / 最終更新日 : 2015年6月25日 times 始まりと終りに 「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【16】第三章 呼び戻されて 清子は「日記」の七月三日、石川啄木を歌っている。 啄木の歌 懐かしくなりにけり 一つひとつの うなづかるれば 清子と啄木。女学生のころからファンだったのだろうか。私は「一握の砂・悲しき玩具」(新潮文庫)を買い求めた。 そ […]