父のアルバム【7】第二章 昭和を旅する

父はどのような学生生活を過ごしたのだろうか。今さら叶うはずもないが可能なら語り合いたいと思う。私の学生時代は自分のことに精一杯で、特攻隊に命を散らせた学生たちに関心を寄せたが、さらに遡り父のその時代に想いを馳せることはなかった。

父は、初等・中等学校教員の育成をめざす広島県師範学校の福山本科第一部を大正15年3月に卒業している。十歳違いの兄は、同じ師範学校の広島本科第一部を大正6年3月に卒業している。

師範学校は、卒業後に教師になることを前提に授業料が免除されており、生活も保障されていた。父は何故教師をめざしたか。そのヒントになる資料を見つけた。

それは「日本の歴代市長」(歴代知事編纂会)である。そのなかに8代目三原市長を務めた、父の兄の平井昌蔵の経歴の記載があった。

―平井昌蔵は明治28年11月23日、父・新六の長男として生まれた。先代新六氏は旧御調郡山中村の村長を五期務め、私財を投げうって村づくりに尽力した。また、地元小学校で20年間にわたり教鞭をとり、かつ校長を務めるなど教育界でも多くの功績を残した人。

父子三代の教育家である平井昌蔵は広島県師範学校を卒業し、尾道三成小学校、向島小学校教諭を経て三原西・山之町・三原各小学校長、明善高等学校長と二十年間にわたって学校長を歴任、昭和24年教育生活に終止符を打った。

私の父・隆雄は新六の次男として生まれた。そして父や兄の強い影響を受け、教師の道を歩み始めたのであろう。そして時代は巡り、私が父の後を追って、広島師範の伝統を継ぐ広島大学教育学部に進んだ。その時の保証人に現役の市長である叔父・昌蔵がなった。

父の学生生活の時代背景は私のそれとは大きく異なる。私は、第二次世界大戦(太平洋戦争)の敗戦を引きずりながらもいわゆる戦後民主主義を謳歌した学生生活を過ごした。学生である父が生きたのは、日露戦争後の国内外情勢の下であり、朝鮮併合後の時代である。

父は在学中に満州・朝鮮旅行に参加した。これは師範学校の研修旅行なのか、日露戦争の日本海々戦が行なわれた日に海を渡りその戦跡を見学している。そして、「感無量であった」との想いを残している。

私は海外への旅行の経験は一度もない。それに比べて父は、20歳を前にして中国大陸と朝鮮半島を訪れているのである。

後列左二人目が師範学校時代の父・隆雄。その前が先代新六、左隣りが兄・昌蔵。新六は私の父方の祖父になる。

(青木忠)

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