時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【21】幕末のお城碁と公方様(その2)

 嘉永7年11月23日附(1854)で江戸の秀策から郷里の尾道港橋本吉兵衛と長右衛門の両者にあてた手紙の中に

「当年はお好み碁もこれ無く残念に存ぜられ候」

という一節がある。


 お好み碁というのは、御城碁のあとに行われるフリーのエキシビションマッチ(模範試合)と考えていいでしょう。
 それでは「御城碁」という制度ですが、最初に思いついたのは豊臣秀吉であるといわれています。その後、徳川家康が棋界を幕府の庇護下に置いて寺社奉行配下で制度化、組織的に実施されるようになりました。そして高段位の碁士をめざす囲碁奨励試合ともいわれるようになって、恰もこの時代の武士の御前試合にも匹敵するものでした。
 年に一度、日時を定め江戸城内黒書院において選抜された棋士たちを対局させ、時の将軍に御覧に入れるという城中の年中行事の一つに発展。御城碁出仕が棋士たちの登竜門となり、場合によっては「官賜御所」をかけての争いの場ともなりました。
 それ故に御城碁出仕に選ばれる棋士たちは、不断の研究を怠らず、一門の名誉をかけて最も真剣な態度で臨んだものです。秀策の時代には、11月日17日が恒例の御城後開催の日であったことから九月末ごろにはその準備のため地方遊歴から江戸に帰っていたわけです。そして、秀策御城碁十九連勝という前人未踏の対局を御覧になった公方様は第十二代将軍徳川家慶とNHK大河ドラマ篤姫で登場したうつけ将軍十三代家定(堺雅人)十四代家茂(松田翔太)といずれも短命の将軍様でした。
 そして、名誉ある御城碁に参加できた棋士たちはというと、甚だしく限られていて、先ず四家の当主。願い出済みの四家元の跡目相続人(但し五段以上)その他上手(七段)以上の技量を有する者。その他に例外として高家大名もしくは旗本の武士で碁技をよくする者が願い出によっては特別に列席できるように定めてあります。秀策が参加できたのは、この願い出済みの本因坊跡目相続人としての資格で出仕していたことはいうまでもないことでしょう。
 そのお城碁の開催日については、最初の頃は別に決まっていませんでした。八代将軍徳川吉宗の享保年間から毎年十一月十七日と定められたようです。以来、御城碁の期日が近づいて来ると、月番寺社奉行より

寛永の御吉例により例年通り十一月十七日御城碁此れ有る可く候
寺社奉行
碁所将棋衆

の書面が出されると各家元は集会の場をもって協議が始まります。
(庚午一生)

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