ふたりの時代【22】青木昌彦名誉教授への返信

0歳の戦争体験(上)
 0歳時の戦争体験は経験と言えるのか、私にとって大きなテーマである。わが家が米空軍の空襲を受けたのは、私が生まれて11カ月が経った頃だった。祖母と母とともに全壊した家屋の下敷きになった私は、仮死状態から救い出されたという。当然であるがまったく記憶がない。知りえていることはすべて、家族、親族、地元の方から後になって聞いたものである。


 私は2002年から、自らの生後11月における空襲体験を基に、因島空襲の調査活動を開始した。まずそれは身近なことから始まり、同じ空襲で付近の住民が十数人亡くなったことが分かった。衝撃を受けたのは、私と同じ0歳と思われる少女が死んだことを知った時だった。それと同時に、空襲を行った米空軍に対する「憎悪」の想いが込みあげてくるのを抑えることができなかった。
 その憎しみの感情は生まれて初めてのものであり、できることなら復讐を遂げたいという激情を含んだものであった。そのとき私は自分の内部では、あの戦争は終わっておらず、今なお継続しているのかもしれないと思った。私が現在もつづけている空襲調査活動の根元にあるのは、この想いではなかろうか、とさえ思う。
 空襲で自ら傷つき、あるいは身内が殺された場合、その人はまず何を感ずるか。攻撃をしかけた相手を憎悪し、復讐を誓い、反撃を試みるだろう。「軍国少年」だったひと世代上の人たちは、きっとこうした「憎悪」の体験を有しているのであろう。しかし私にはまったく記憶にない。空襲の体験の記憶が無い者が、それに対する憎悪の体験の記憶があるはずがない。
 では、なぜ今ころになって「憎悪」が湧き出たのであろうか。その正体は何であろう。私は、空襲調査のなかで自分が「空襲の子」であることを強く自覚し、その切なさに気付いた。「憎悪」が目覚めたのは、その瞬間であった。
 なぜか空爆が身近に感ずるようになり、因島の三庄町居住地帯への空襲の有様が眼前に生々しく浮かんできた。私が生まれた神田(じんでん)地域は町並みが当時とほとんど変わっていない。今と昔が重なり、投下された爆弾によって蹂躙され、逃げまどう住民の姿が迫ってきた。
 数人の赤子と幼児が亡くなったという。私は生き延びた。その生死を分けたものは何だろう。今日まで生きていて本当によかったと思う。生まれてまもなく死ぬということは私には想像できない。ただ生きていれば同じ学校に通ったことだろうに、と想う。
 壊れた家の下に埋もれた私は多くの人に助け出された。空襲警報発令下での救出作業は大変だったという。防空壕に入らず自宅で空襲をやり過ごそうとした母と祖母は、自らの命と引き換えに私を守ろうとした。私は防空壕でよく泣いたという。おそらくその日は、私のことを配慮してか防空壕に連れて行くのをためらったのであろう。
 空襲のダメージで結核を発症した母は5年後、盲腸炎をこじらせて40歳の若さで旅立った。祖母はそれから四年後に他界した。5人兄弟姉妹のうち末っ子の私だけは、母の結核を理由に同居は許されず、祖父母によって育てられた。家族全体が、はれものにさわるように私を育てた。「空襲によって戦後のわが家は傾いた」という会話は交わされたが、私の「その時」のことは誰もふれようとしなかった。我がまま放題に育った気がする。でも生きていてよかったと心底から思う。
 赤子での空襲体験は、たとえ誰もが私に伝えなくとも、様々な家族模様の移り変わりのなかで私の心底に宿り、じわりじわりと成長していったのであろう。私の体験した喜びと悲しみの生活のなかで憎しみという情念も育っていったのであろう。
 私は今、この激情を抑えようとは思わない。自分に加えられた攻撃への憎悪を忘れたところで何も始まらない。
(青木忠)

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