「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【44】第七章 君たちへ

校長として父は全校児童と保護者を前にこう言った。

「忠君は空襲で死にかけましたが今ここまで大きくなりました」

私が通っていた小学校は全校児童およそ50人で複式学級を採用していた。私の学年は確か10人だった。会場である教室はシーンとした。それもそうだろう、空襲を体験した児童は他に一人もいない。

父は、空襲にまつわる事実を家庭では語ることなく突然、公の場で明らかにした。初めて知らされる私の狼狽などお構いなしに毅然と言い放った。

万感の想いを込めたことだろう。その脳裡には、私とともに生き埋めになった亡き妻の姿も浮かんだに違いない。父はチャンスを待っていたはずである。それなりに成長した息子にはその厳然たる事実を受け止める力が育っていると判断したのだろう。

父の告知は私の人生に非常に大きな影響を与えた。わが人生をふり返ってみるに、ここから私の本当の人生が始まったと断定できる。誕生会の後、父が死ぬ直前まで空襲のことを語り合うことはなかったが、「告知」の内容はしっかりと私の心底に息づきつづけてきたのである。

父は教育委員会時代(昭和34年4月~同43年3月)に「因島市史」の編集に委員として関わっている。しかし胸の内は複雑であったと想像される。それには空襲の事実が酷く歪曲されて記述されているばかりか、三庄町の空襲が抹殺されているからである。いわば父はウソの共犯者になっているのである。

「因島市史」が発行されて16年経て発行された「ふるさと三庄」に空襲体験の手記を寄せている。私が知るかぎり、当時書かれた唯一のものである。次の部分を何度も繰り返して読む。

飛行機が去った後現地を見に行きましたら七区の私の家附近に池のような穴が出来て家は跡かたもなく飛び散っておるのです。この附近の家も破壊されて大混乱でした。この時十数人の死者があったことを思い出します。

「この附近の家も破壊されて大混乱」「十数人の死者」。父は三庄町で何が生起したのか掌握していたのである。無念なことには「手記」を私が読んだのは、父が他界して3年後のことである。「ふるさと三庄」は、私がUターン直後その表題に興味を持ち父から譲ってもらったものだ。父と同居した時期に読んでいれば親子の語らいに発展したろうに、と何度歯ぎしりしたことか。

父はすでに私がその「手記」を読んでいるものと思っていたのではないか。実家の行く末に苛立っていた私が放った「僕はもう松本家とは関係ない」の言葉に父は激昂し、

「お前が今生きておれるのはあの時、お母ちゃんとお祖母さんが身を挺してお前を守ったからじゃ。よう覚えおけ」と語気を強めた。死ぬ2年前の実質上の遺言であった。

意を決しわが家族の空襲を調べ始めたのは父の死後から3年が経っていた。なかなか踏み切れなかったのだ。真相に迫るのが何故か怖いのだ。迷いに迷った結果、ある出来事をきっかけに私は覚悟を固めた。

地元の小学校に通う息子が学校から印刷物を持って帰ってきたのである。見れば「西島和夫さんの戦争体験『日立造船所の空襲』」とタイトルが付いていた。

おもわず私は「もう駄目だ。もうやるしかない」とつぶやいた。自らを支配していた怯えや迷いはうそのように消えていった。

(青木忠)

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