ふたりの時代【20】青木昌彦名誉教授への返信

源流を訪ねて(3)
 今年の7月5日に行なわれた「私の履歴書 人生越境ゲーム」出版祝賀会で20数年ぶりに再会し、その後何回かのメールを頂いた方にお礼を込めて、私のまとめた「瀬戸内の太平洋戦争 因島空襲」を送ったところ、その方自身の戦争体験をつづったメールをいただいた。71歳になられたそうだが、60安保闘争の担い手の一人である。

 ―私は1945年3月10日東京大空襲を機に、広島県安芸郡音戸町倉橋島に長姉(18)、次姉(15)と共に疎開しました。私は小学2年7歳でした。倉橋島は対岸が呉市警固屋、近くに軍艦がたくさん停泊しており、呉工廠もあり、6月ぐらいから連日空襲でした。倉橋島の私たちが住んだ部落・波多見の大浦崎には特殊潜航艇を製作している地下工場がありました。長姉はそこの事務員として勤めました。
 6月頃からは連日空襲がありました。来襲するのは艦載機・グラマンでした。土佐湾の空母からの来襲と言われていました。大浦崎と向いの情島の間の海峡に軍艦「日向」が停泊していましたが(燃料が無く出動できなかったと聞いていました)、7月頃に艦載機の2日間にわたる波状攻撃で船体中央をふたつに折られて沈没というより、座礁した形になりました。私たちは島の丘から波状攻撃を縫って乗組員の救出に往来する上陸用舟艇を眺めていました。
 艦載機は私たち市民も認めれば急降下して機銃掃射を加えてきました。ある日私たち子供が浜で遊んだ時、島陰から現れたグラマンに襲われたことがあります。点のようなグラマンの出現を認めて岸に逃げ上がり、目の前の家に駆け込むのと、その上をバリバリと機銃掃射されたのがほぼ同時だったと記憶しています。
 部落では一人若い母親が機銃掃射で即死しています。その人は空襲警報に防空壕に行くのを断り、家の前の井戸端で赤ん坊を負ぶって洗濯をしていました。警報解除後に、家の前の道ばたの崖に作られた木で組んで、その上に土を盛って偽装した半畳ほどの「防空壕」で頭部を貫通されているのを発見されたのですが、グラマンはその母親が逃げ込むのを見ての攻撃であったと推測するのに難くありません。背の赤ん坊は無事でした。こうした機銃掃射の穴を見つけて掘って銃弾を掘り当てた先輩が羨ましくて皆夢中になって掘りましたが、他に銃弾を見つけた人はいませんでした。
 8月6日は夏休み登校日で学校で、原爆投下の閃光と爆音に校舎から飛び出し、丘の向うに上る「きのこ雲」と帰っていくB29もみました。家に走り帰り裏の丘に登って炎上している広島市方面を遠望しました。
 9月には東京に引き上げましたが、父からは広島市に立ち寄るなと言われました。当時貴重品だった鍋・釜・ふとんを子供3人で背負って呉線吉浦からごった返す列車に乗り込みました。三原の手前で鉄橋が落ちているから停まり、暗くなった外に下ろされました。三原までとぼとぼと歩いていったのですが、私たちが一番後になりました。旅館にいって泊めてほしいと頼みましたが、どこも一杯と断られ、ある宿にどこでも良いから寝かせてほしいと頼み込み、布団部屋に寝かせてもらいました。
 翌日三原駅から山陽線に乗り、ともかくも名古屋経由で信濃大町にいた父母の元に戻りました。松本から信濃大町へは機関車に引かれた無蓋車で、煙の煤で真っ黒になりました。

   
 政治活動に明け暮れた東京時代、この方とは何回も会話をする機会に恵まれたが、広島県のことに詳しい人だとは気付いていたものの、疎開・空襲・原爆体験について初めてお聞きすることになった。この方の60安保闘争をはじめとする闘いの人生の原点が何であるのか、理解できたと思った。感謝に堪えない。

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