「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【43】第七章 君たちへ

ノートに記したメモの赤色に父のどのような想いが込められているのか。

おそらく空襲直後父は、教員として児童たちに被害が及んでいないか事態の掌握に追われており、自宅の惨状を想像できなかったに違いない。

現場に到着したころには、生き埋めになった妻と祖母と三男は救出されていたであろうが、「池のような穴が出来て家は跡かたもなく飛び散って」いる状況に父の心境はどのようなものだったのだろう。

そのことを私は一度たりとも考えたこともないが今では理解できるような気がしている。父が感じたものは、諦念の想いではなく、怒りと憎悪だったのではないだろうか。私は空襲調査の初期段階に憎悪の念が燃え立つのを抑えることができなかった。それは、60年近くの時空を超えてであるが、父がその時に感じたものと同種のものと思えてならないのだ。

ところで父は、自らのそうした想いを小学校の同僚に伝えようとした形跡がある。

数年前、父と同じ小学校に勤務していた新任教師に当時の話を聞くことができた。

三庄の爆弾はすごいもんだと思った。昭和20年10月31日、三庄小就職。戦争被害の話が出て、「松本先生もすごい被害にあっているんど」と聞いた。

穴が残っているから、同じ学校の教員みんな連れて行ってくれて穴をみせてもらった。(空襲跡見学とは言えないので)畑に行く途中ということにして。

池のような穴だった。8畳の部屋くらいの広さで、深さは、天井から床までくらい。見せてもらえなかったら分らないままだっただろう。爆弾の跡をみてすごさがわかった。一発でこの穴ができたのか、それにしてはすごいなと思った。

因島に帰ってきて因島空襲のことを初めて聞いた。当時、そのことを話しにくい雰囲気があった。

彼は、昭和20年に予備士官学校に入学。終戦の時は岡山県の日本原で演習中だったという。

当時同僚だった別の教師から私は、機銃掃射の薬きょうと爆弾の破片らしい金属片の提供を受けた。薬きょうは田んぼに沢山落ちていて、子供たちが拾って学校に持ってきたものだという。

金属片は、私の実家の山に薪を取りに行った際、見つけたそうだ。その山には子供のころ私は度々入ったことがある。そこは、爆撃された日立造船の土生と三庄の両工場と等距離にある位置だから、そのうちどちらからか飛来したのだろう。

ふたりの教師の話から、父が空襲の会話を同僚の間でしばしばしていたことが伺える。

空襲からおよそ一年を経て父に大きな転機が訪れる。昭和21年12月、隣町の小学校に新任の校長して着任することになり、そこに32年3月までの10年間余り勤務したのである。単身赴任ではなく、末っ子の私を祖父母に預けて家族は移住した。

この時期の昭和25年7月、私と祖母とともに空襲で生き埋めになった生母は病死し、父は再婚する。しばらくして父は、私が空襲によって死にかけた事実を告げるのである。
校長としての父は、小学校の誕生日会の場で4年生の誕生日を迎えたわが息子に運命的な告知を突然行なうのである。

(青木忠)

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