ふたりの時代【19】青木昌彦名誉教授への返信

源流を訪ねて2
 青木昌彦氏は1938年(昭和13)、名古屋で生まれ東京に移り、その後神奈川県湘南の鵠沼や片瀬で育った。太平洋戦争勃発は三歳半のときである。空襲がはじまると、母や叔母たちと長野県に疎開した。敗戦のことを次のように述べている。

 ―玉音放送を一族で聞き終わると、祖母がどこかにしまってあったブドウ糖の塊を子供たちに分け与えて、「これからは子供たちが頑張らねばいけない時代だから」と言った。片瀬に帰り、海岸に出てみると、相模湾にはアメリカの真っ黒な軍艦が群れをなし停泊していた。黒船襲来、子供心に何か新しい時代の到来を告げるイメージだった。近くの辻堂海岸には戦車が上陸した。

 60年安保全学連を指導した共産主義者同盟(ブンド)書記長の故・島成郎氏はは子ども時代を回想して次のように語っている。

 ―私が生まれたのは1931年(昭和6年)、「満州事変」勃発の年、これから15年に及ぶ太平洋戦争が始まるわけだから、私の少年期は、文字通り戦争の中で過したといってよいだろう。

 1945年(昭和20年)の3月9~10日、初めての東京大空襲があった。その体験を次のように記している。

 ―攻撃の対象が東京の下町を中心にしていたため、山手の目黒にあった私たちの周辺はこの日は無事だったが、やがて東の空が真っ赤に染まっていくのを見て、この空襲の規模が並大抵のものでないことを知り、不安におののきながら一睡もせずに夜を明かした。そして夜明けとともに、私の家の前の大通りを、着のみ着のままの被災者たちがとぼとぼと引きもきらずに歩いてくるのに出会い、下町がほとんど壊滅状態になったことを知った。

 さらに5月23日、26日と東京は大空襲に襲われ、島氏の家一帯も炎上したが、自宅の一画だけは奇跡的に燃えずに残った。やがて8月15日正午、中学2年の彼は、東京郊外の農家の庭先で直立不動、頭を垂れてラジオ放送に聴き入っていた。玉音放送である。14歳の島少年は、その戦争を「聖戦」と思い、「本土決戦」という最後の戦いに、すべてを投げ捨てて参加しようと決心していた。彼の目に敗戦はどのように映ったのだろうか。

 ―神として心から崇拝していた天皇のもとに、確固としてつくられていたはずの日本国家が、全く戦わずに数ヶ月にして崩壊してしまった事実。そしてその国家の存続のために死を賭して戦う決意を固めていた私たちが、天皇のひとことでそれまでの決意を翻し、鬼畜アメリカの支配にきわめて従順に屈してしまった、というあまりにも劇的な現実劇(中略)。どれ一つとっても、当時の私にはつかみどころのないほど大きな、不可解な現象だけに、突き詰めることのできないままに、流れの中に身を委ねる以外にはできなかったのだが、呑み込もうとしても呑み込めないほど大きな謎として、私の中に残っていったのだ。

 にもかかわらずアメリカ軍の占領は、容赦なく始まった。島氏はそれをメモ風にまとめている。

 8月28日、米軍の先発隊が日本に上陸。同30日、連合軍最高司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場におりたち、横浜に総司令部がおかれた。9月2日、米戦艦ミズリー号艦上で降伏文書に調印。同8日、米軍東京に進駐。同11日、GHQ東条英機元首相ら39人を戦争犯罪人として逮捕命令。各地に米軍が進駐、日本軍隊の武装解除進む。新聞への検閲開始。占領軍への批判禁止。GHQによる宣伝放送始まる。

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