「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【38】第七章 君たちへ

空襲から70年。誰よりも娘と息子にありのままの父としての姿を伝えたかった。父は何に必死になっているのか、ふたりの目前で示したかった。

6月の初旬のことだろうか、広島市に本社を持つ地方紙である中国新聞の記者から電話が入った。因島空襲の取材の申込みである。記者は新山京子と名乗った。名前は知っていたが初対面で、初めての会話だった。後に知るのだが、息子と同じ年齢である。

取材を承諾するにあたって私は、ひとつだけ注文をつけた。記者の所属する新聞社の主張として記事を掲載することを強く望んだのである。

それまでに私が報道各社から取材を受け、記事になり、放映されたものはおそらく百件を越すだろう。それが大きな力となって因島空襲という歴史的事実は劇的に広まっていった。

しかし、物足りなさも感じていた。それらの報道内容のほとんどが、私の調査活動の紹介に終始しており、それぞれの報道機関としての責任ある見解が示されていないのだ。その原因は明白だった。各社独自の取材活動が一切なされていないからである。

私は「中国新聞としてのオリジナルな記事」を新山記者に強く期待した。そしてその期待は叶った。記者は中国新聞流の取材の方法を駆使し、私の及ばないスケールの大きい記事を連発した。

まず目を見張ったのが、情報公開請求という手段を採用したことである。そのことによって、空襲の状況が記録されている「土生町警防団日誌」が公開された。また、空襲の日々に綴られた「土生小学校日誌」が紙面で紹介されることになった。

記者の語学力を生かした因島英軍捕虜収容所の記事は圧巻だった。当時、日立造船所で空襲を体験した英軍捕虜たちは有力な歴史の証言者である。記者は、ある英軍捕虜の残した日記のことを掲載した。その日記には空襲のリアルな様相が記録されていたのである。

空襲の調査において語学力は大きな武器である。日本への空襲が米英空軍によるものであることが主なその理由だが、因島のように捕虜収容所がある場合など、英語力は必須となる。

時代を証言する貴重な映像が紙面に並んだ。とりわけ私が注目したのは、日立造船因島工場で攻撃された船舶の写真二枚である。終戦直後の因島捕虜収容所の写真も実に鮮明である。空襲70年にふさわしい紙面と言える。

記者は限られた期間のなかで精力的に空襲犠牲者の遺族や体験者への取材をつづけた。そして、その結果を五回にわたる大型連載に結実させた。記述が丁寧で、犠牲者や体験者への敬意と優しさのこもった記者の眼差しが伺える。取材を受けた人たちにとってもこの連載は宝物になったに違いない。空襲調査を十数年にわたってつづけてきた私にとっても、一連の記事は永久保存版である。

記者は私に何度も自らの空襲取材の視点について語った。記事の掲載はあくまでも出発点であり、大切なことはその内容を学校に出かけて直接児童、生徒たちに伝えることであると主張した。

連載の最後が、地元の因島高校での空襲をテーマにした平和学習に当てられている。記者の空襲体験の継承に対する強い期待の表れであろう。

さらに、空襲犠牲者の遺族である姉妹と孫への取材を行い、心あたたまる記事を書いている。

(青木忠)

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