時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【15】秀甫の運命(その4)

秀策死後の波紋
 十四世本因坊跡目の秀策の突然の死が、秀甫の運命を大きく変えることになる。
 十四世本因坊秀和は、とり急ぎ跡目を決めなければならない。秀甫は、秀策の死の2年前の万延元年、22歳で六段に進んでいた。秀策とともに「碁界の圭玉(けいぎょく=上がとがり、下が4角い玉)」「坊門の竜虎」と称せられていた。


 島根県出雲市以西の石見(いわみ)地方出身の岸本左一郎が郷里へ帰ったあとは、本因坊道場の塾頭を秀甫がつとめていた。実力からいっても門弟内では秀甫以外にいないと誰もが思っていた。秀甫自身もそう思っていたに違いない。
 ところが、思わぬところから横車を押すものがでた。秀策の妻花の母親勢子である。勢子は十二世本因坊丈和の未亡人で、秀和にとっては後室に頭が上がらない。秀和の本心は、秀甫を跡目にしたかったが、心ならずも勢子の長男、秀策にとっては義弟の秀悦に決めて幕府に届け出た。秀悦は、まだ数えで14歳、三段だった。秀和がいかに悩んだかは、跡目願いが秀策の死後1年2ヵ月も後になってから出されたことでも分かる。
秀甫出奔放浪の謎
 この跡目決定の後に秀甫は不満を抱き、坊門を飛び出し、諸国を放浪したと伝えられる。その時期は定かではないが、明治維新前というのが囲碁史に書いてある。しかし、秀甫に関する棋譜や直筆の資料や旅行の足跡などから判断すると疑問の数々が浮んでくる。
 まず出奔の動機である。秀策の急死による本因坊家の衝撃と悲しみは想像以上のできごとであった。秀策の義父である十四世本因坊秀和が因島の父親桒原輪三にあてた手紙からも読みとれる。しかし、悲しんでばかりいられない事情として、幕府の碁方として扶持(ふち=俸禄。俸給)をもらっている本因坊家として重要なことの一つとして跡目問題があった。
 秀策とともに「坊門の竜虎」といわれ、衆目が一致していた秀甫をさておき、若干14歳の秀悦が跡目に指名されたことは、秀甫はもちろん関係者の驚きが大きかったはずだ。秀和の師丈和の未亡人勢子の力があったとはいえ、後世「秀和が生涯にたった一つの汚点を残した」という人もいる。
 その勢子は、芸州三原浅野藩の預り弟子だった秀策を可愛がり、跡目に決まると娘花と結婚させた。それに反して秀甫のことを嫌ったと伝えられる。一説によると、大工の子として生れ、謝礼もままならず、師匠の身の回りの世話をして成長した身分にこだわったともいわれている。
(庚午一生)

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