ふたりの時代【15】青木昌彦名誉教授への返信

伝説の60年安保(上)
 60年安保闘争から70年安保闘争の10年間は、日米安保同盟の廃絶が社会的テーマに押し上げられた、特別の時代であった。安保を粉砕して、日本において革命的情勢をきりひらこうとする勢力が社会を牽引した激動期であった。もっとも10年というのは、象徴的な表現であって、本稿で描きたいのは、安保改定が焦点になった1959年から沖縄が返還された1972年の10数年である。


 すでに詳述したように最近、百名以上の60安保全学連のメンバーと一堂に会することになった。そしてこれをきっかけに、体験したことのない60安保闘争とは何であったのか、知りたくなった。しかも解説書ではなく、その中心にいたメンバーの語る実話として、である。
 その世代の強い影響をうけているにもかかわらず私は、60安保闘争の具体的な有様を知らないのだ。広島大学に入学したのは1963年のことである。大衆運動の潮はすっかりひいてしまい、大学は沈滞の底にあり、60年安保闘争の高揚などが嘘に思えるほどであった。当然のことに誰からもその当時の話を聞くことはできなかった。
 手はじめに基礎的な作業として、「日本史年表」(歴史学研究会編、岩波書店)を見てみた。全学連の主要な闘争がすべて記載されている。

1959年11月27日 安保阻止第8次統一行動、デモ隊2万余名国会構内に入る。
1960年1月16日 岸首相ら新安保調印全権団出発、全学連など羽田空港に座込み。
1960年4月26日 安保阻止国会デモ、全学連と警官隊、衝突。
1960年6月15日 全学連、国会構内に入り女子学生1名死亡。
1960年6月19日 33万の国会包囲デモ。新安保条約自然成立。

 青木昌彦氏は、「私の履歴書 人生越境ゲーム」のなかで、独特の調子で、それらの闘争の一つひとつを語っている。それはとても新鮮で、ぐいぐいとひきこまれていった。まず、最初の国会突入闘争である。10万のデモ隊が国会を包囲し、構内に全学連5千人をはじめ2万人が突入し、数時間にわたり労組の赤旗や学生自治会旗が翻った。

―この年の11月27日、日米安保条約の改定に反対する学生や労働者のデモ隊が、国会正面玄関を突破して構内を埋めつくした。(中略)

 私は当日デモ隊の先頭にいたのでよくわかるのだが、国会突入はハプニングといってもよかった。正面玄関前で守衛と押し合いをしているうちに門が開いてしまい、社会党の政治家たちの「国会へ」という言葉だけのアジが、瓢箪(ひょうたん)から駒が出てきたように実現してしまったのだった。2時間ばかり国会構内で、デモをした学生や労働者たちは思いもかけない出来事に祝祭的な高揚感を感じたのは事実だ。
 つづいて、この行動に対して、マスコミが「憲政史上最大の不祥事」と非難したことを紹介したうえで、昌彦氏は次のような評価を提示している。

 ―(前略)国会の権威は究極的にはその建物の偉容で保たれるものではなく、その行動に対する民衆の承認なしにありえない。そういう基本の共同認識が浮かび上がってゆく、「憲政史上最大の試練」の訪れを告げるものとなった。そしてもっと短期的には、国会を再び目指すか否か、が安保政治の季節における人々の立場と覚悟を区別するシンボルともなった。

 年が明けて闘いの舞台は、羽田空港に移った。新安保調印のための岸信介首相訪米阻止闘争である。

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