「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【32】第六章 最後の旅路

沖縄行きは、偶然だが沖縄県知事選挙と重なった。最終日が選挙の告示日だった。宿泊したホテル近くに現職の事務所があり、せわしく動く運動員の姿が見えた。「菅原文太氏来る」のポスターが貼られていた。新人候補の応援のためである。

三庄空襲で亡くなった仲宗根さん一家調査のための沖縄訪問の目的をふたつに絞った。ひとつは対馬丸記念館を訪ねること。もうひとつは、沖縄の二大紙の取材を受けることである。

初日、那覇空港から対馬丸記念館に直行した。そして理事、学芸員、職員の方々と懇談することができた。事前に学習したことで私の対馬丸事件への関心は急速に高まっていた。

対馬丸遭難者遺族会が発行した「記録と証言 あゝ学童疎開船対馬丸」の帯には、「沖縄戦最大の悲劇」と記されている。しかし、この大惨事について箝口(かんこう)令が敷かれた。「話してはならない」という命令が新しい苦しみを生みだしたという。

事件の調査活動においても大変な苦労があったであろう。記念館公式ガイドブックに挟まれている「対馬丸に関する基礎データ」という文書には次の記述がある。

「対馬丸」に関する確かなデータは一つもありません。今では考えられないことですが、当時は細部にわたる被害実態調査がされませんでした。このことも対馬丸撃沈事件の本質として、ぜひ語っていただけたらと存じます。

今なお懸命な調査が継続されている。様々な困難をのりこえて活動をつづける対馬丸記念会に私は発奮させられたのである。

二日目の午前中に琉球新報の取材を受けた。私はここぞとばかり、想いを伝えた。翌日の新聞に載った。

青木さんは、1969年の4・28沖縄デーの際、沖縄返還問題をめぐる政治集会で演説し、破壊活動防止法(破防法)の扇動容疑で逮捕された経験を持つ。

帰郷後、自分が体験した因島空襲について調べるうちに出会った、沖縄出身の母子の存在。「沖縄の問題について何も知らなかった」と自分を恥じ、「仲宗根さん一家のことを調べることに残りの人生をささげたい」と話す。

三日目の午後、沖縄タイムスの取材を受け、翌日掲載された。

青木さんは1969年4月28日、東京で沖縄の基地付き返還に反対する闘争を指揮し、破防法の扇動罪などで有罪判決を受けた。

政治から離れ、故郷の因島に帰ったのは91年。空襲で当時0歳の自分が九死に一生を得たことや、隣家で悲劇に遭った仲宗根さん一家が沖縄出身だったことを知った。

「沖縄問題はやり切ったと思っていたら違った。0歳から沖縄と関わっていた自分に残された仕事は、仲宗根さんをきちんと調べ、慰霊することだ」

琉球新報と沖縄タイムスは沖縄を二分する新聞である。それぞれ二度にわたり、大きく取り上げられたことに大きな充実感を持った。きっと私の調査活動によい結果をもたらすに違いない。

ガイドブックでしか見ていなかった記念館の展示をゆっくり時間をかけて見学した。そして野原さんに案内されて慰霊碑「小桜の塔」にお参りし、祈った。

理事と学芸員に同行して、那覇市歴史博物館で開催中の「十・十那覇空襲展」を見学した。那覇市に大きな空襲があったことを沖縄行の直前に知った私である。

(青木忠)

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