「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【31】第六章 最後の旅路

私が頻繁に訪れていたころとくらべ那覇は大きく変わっていた。その変容ぶりに当初、面食らった。そのことを思い知らされたのは、那覇空港から対馬丸記念館への道のりを調べている時であった。

私は三十年前と同様、空港から那覇中心部への交通手段がバスと乗用車だと想定していた。ところが十年以上も前に沖縄都市モノレール線が開通していたのである。すっかり狼狽した。9月8日付の野原さん宛メールに記した。

冒頭から恥ずかしいことを告白せねばなりません。

数日前に、空港と首里間にモノレールができたことを初めて知りました。私が沖縄に度々、仕事ででかけたのは三十年前です。それから全く行かなくなりました。もう沖縄に旅することはないと思っておりました。

こうして私は、時代の流れと沖縄の変化を一つひとつ慎重に確かめながら那覇に向った。まず驚いたのは、那覇空港が大きくなっていたことである。当然、そこの賑わいも半端ではなかった。少々戸惑いながらモノレール駅改札口に向った。

モノレールも混んでいた。大半が観光客のように思えた。特に目立ったのがアジア系の乗客だった。中国語だろうか、活発な会話がつづいていた。車内から見渡せる街並みもこれが同じ街だろうかと思えるほどの著しい変貌ぶりだった。

向う先は対馬丸記念館である。県庁前駅で下車した。地理に自信を失った私は、タクシーを使った。そして運転手に矢継ぎばやに質問した。

「那覇は変わりましたね。道路が広くなり、車の量が多くなりましたね」
「そうだね、変わりましたよ」
「国際通りもそうですかね」

那覇市最大の繁華街で有名な国際通りのことを尋ねた。

「うん、変わったね。自分なんか行かないよ」
「どうしてですか」
「そこへ行っても買う物なんかないもん」

彼は、その通りが内外の観光客で占められており、地元の住民はほとんど近づかなくなっていると説明した。

眼前に対馬丸記念館が現れた。何か夢みたいだった。ホームページで何度も見たが言うまでもなく、実物は初めてである。玄関は2階である。入口の受付で「因島からやってきました青木です」と挨拶すると間もなく事務室に招き入れられた。

興奮気味に名刺交換を済ませるや否や、コピーしてきた資料を次々手渡して自己紹介に懸命になった。そして気配で野原さんを追った。空港から彼女に電話をしたばかりだから事務室にいるはずだ。

実は野原さんの顔を私は知らないのだ。もっぱらメールを使っての交流である。電話での会話も二、三回しかしていない。随分不思議な感覚であった。メールの交信を繰り返すうちに親近感を増していったが、顔や姿に接したことがない。

やがて「野原です」と声がして私は顔を向けた。「この人が野原さんだ」とすぐさま「青木です」と応え、名刺を渡した。この瞬間である。「夢ではない。本当に那覇市の対馬丸記念館にやってきたのだ」という実感が湧いた。

夕方、野原さんに時間をとってもらい、会話の機会を得た。メールで互いに交わした内容の意味を実際の会話で確かめたかったからである。

那覇での私の活動計画を話し、彼女の意見を聞くことで明日に備えた。久しぶりの那覇の夜であったが外出することもなく、落ち着いて過ごせた。

(青木忠)

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