ふたりの時代【11】青木昌彦名誉教授への返信

出版祝賀会 下
 私には三種類の顔と人間関係がある。生まれ故郷の因島、広島大に通った広島市、波乱に満ちた東京時代。高校生までとUターン後を合わせて三十七年が因島。広島市にはほぼ三年。東京はおよそ二十二年。極端な「郷に入りては郷に従う」主義者である私にとっては、その三つがそれぞれ独立しており、まったく無関係に並立していた。


 因島の高校を卒業して大学に入学すると、高校までのことは忘れ、まったく新たな人間関係の形成をめざした。広島大を中途にして東京に転じたときには、大学時代との多くの仲間と没交渉になった。当時、「箱根の山を越すにはそのくらいの覚悟が必要だ」と、本気に思った。言い換えれば、人生選択の場になった広島大への愛着は大きく、そのくらいの決意がなければ上京できなかったと、いうことになるのであるが。
 いったんは終(つい)の棲家にしようと決心した東京生活を捨て、家族をつれて因島に帰ってきたときも同様であった。地元のある友人は学習塾の経営を真剣に勧めてくれた。専門といえば教育であった。しかし、その道を選択せず造船の錆取工や土木作業員の職業に就いた。地元でゼロからやり直し、家族を養っていこうとした。
 ところが生きていくということは、そんなに甘くない。自らの経歴や能力のすべてを出し切らないでやっていけるはずがないのだ。Uターン後4年を経て、学習塾を立ち上げた。卒業をしなかったものの在籍した「広島大教育学部小学校教育課程」を初めて前面に出した。「青木塾」を名乗った。ささやかではあるが、地元での旗揚げである。
 だが、「東京時代」だけは持ち込みたくなかった。知られたくないということではなく、それに依拠しないで、生まれ故郷で新しい力を獲得したかった。あくまでも地元で生きていくことにこだわり、そこで直面した問題に全力で立ち向かおうとした。その表れが、地元紙「せとうちタイムズ」作成への参画や「因島空襲」の調査活動であった。ふたりの子どもたちも大学に通うようになった。生活は相変わらず苦しいものの、ある程度やっていけるという自信めいたものが湧いてきた。青木昌彦氏と出会うことになったのは、こうした時期であった。
 さすがこれには、「因島の青木忠」だけでは対応できなかった。やむを得ず、戒めを破り「全学連の青木忠」の肩書きを使い、それに合わせて、二十年近くの因島生活でつちかった蓄積を発動した。つまり私なりの命がけの人生で取得したあらゆる能力を必要としたのだ。
 出版祝賀会の場面に戻ろう。そこに集まった人士は例外なく時代を担った人たちである。ほとんどの方とは面識はないが、それぞれの人生を経て、この場に集まったのであろう。まずは、当初の目的であった、裁判でお世話になった弁護士の一人ひとりに挨拶をして回った。ほとんどは私よりひと世代上の方々ではあるが、わずかながら同世代の出席者もいた。同時代の学生運動をともに担い、二十年もの間、四・二八沖縄デー破防法事件裁判闘争を被告団として闘った久保井拓三氏が亡くなったことも、初めて知らされた。それは、十年もの前のことであった。
 ほぼ二十年間のご無沙汰で、その空白故に、話しかけられれば、ただうなずくしかないのであるが、そうした会話が妙に新鮮で楽しい時間が過ぎていった。みんな、したたかに生きているんだ、素直にそう想った。東京と因島との間に自ら築いた壁は自然と消えていった。もう怖れるものは何もないと実感した。
 意識してバラバラにしていたそれぞれの人生の時期を、強い決断をもって統一し、大胆な一歩を踏み出すときが訪れたことを自覚している。「瀬戸内の太平洋戦争 因島空襲」の発行はその序章である。この連載は、その作業の完成への営みになるはずである。書くことでさらに書く意欲を引き出すことができればと思う。

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