「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【27】第五章 運命の電話

慰霊行事の直前に訪れた夫妻からの聞き取りによって、仲宗根さん一家の実像がさらに明らかになった。

ご主人は、当時地元の小学校の教師をしていた父の教え子である。生前の父と畑仕事で出会うたびに互いの空襲体験を語り合ったという。

来意を告げるとご主人は言った。

「そうじゃろうね、今、仲宗根さんが亡くなったことを覚えているのはワシぐらいしかおらんじゃろうなあ」

仲宗根さんの家族のことを覚えているか尋ねた。

「お祖母さんと話をしたことがない。母親や子供とも会った記憶がない」

という返事だった。

無理のないことだと思った。同席している奥様の話で納得した。

「沖縄が危ないので大阪に疎開し、大阪が危なくなったので、お祖母さんをたよってやってきた。ちょっとしかおらんかった」

彼女は仲宗根さんの長女と同級生だから学校での思い出として語ることができるのである。

仲宗根家の動きはある程度推測できる。

大阪に向ったのは那覇市が空襲された昭和19年10月10日以降であろう。そして年を明けての3月、大阪への猛烈な爆撃が開始された。焼夷弾、大型爆弾、機銃掃射などによる、8回にわたる空襲で大阪の市街地は焦土と化し、一万人以上の住民が犠牲になった。

仲宗根さん一家も逃げ惑ったに違いない。やがて因島行きを決断する。最初の空襲があったのが3月の13日から14日にかけてであるから、因島に向ったのは早くとも4月以降である。したがって、空襲で亡くなるまで島にいたのはわずかだったということになる。

仲宗根家の長女と同じ4年生であった奥さんの話は興味深い。1学年は150人で三クラスだった。町の自給製塩所作りに毎日動員された。同級生の仲宗根さんの死について次のように回想してくれた。

「沖縄から逃れて大阪に行き、大阪が大変だと言って因島に来て死んで可愛そうだったねと同級生で話していた」

遠方からやってきた同級生の死は幼い子供たちの心を揺さぶったに違いない。

なぜ仲宗根さんの家族は防空壕に入らなかったのだろうか。奥さんは次のような話を聞いたという。

「在郷軍人が『防空壕に入れ』と言いにきたが、『私らは逃れてきたから大丈夫です』と言った。皆布団をかぶっていた」

沖縄から大阪。幾度戦火から逃れてきたのか。ついには瀬戸内の島にまでやってきたのである。幼い子供たちが五人もいる家族は疲れきっていたのであろう。危険を回避する気力さえ失っていたのかもしれない。そこを無惨にも一発の爆弾が襲ったのである。

仲宗根さん一家の遺体がどうなったのだろうか。夫妻に尋ねた。ご主人の記憶は次の通りである。

「人間が避難する防空壕の先にあった弾薬用の壕に空襲で死んだ人を集めた。荼毘に付したのは、当時の火葬場の先の一山越えた砂浜。遺体を石で囲み、山の木を乗せて、遺族の立会いのもとに焼いた」
私はこの話に安堵した。生き残ったお祖母さんに見守られ亡骸は荼毘に付されたのだ。

こうして私の内面に仲宗根さん一家の実像がしっかりと形成されていった。悲劇から69年を経て初めての慰霊行事の日が迫った。

(青木忠)

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