「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【25】第五章 運命の電話

私に再び気力がみなぎり始めた。始まった対馬丸記念館の野原さんとの交流の力は大きかった。

昭和53年(1978)に対馬丸遭難者遺族会によって発行された「記録と証言 あゝ学童疎開船対馬丸」が届いた。それには野原さんの手紙が添えてあった。

―お世話になります。私のメールへいつも丁重な返事をありがとうございます。
私はここへ勤めて4年になります。当初は派遣の事務員として契約の範疇で仕事をこなす単調な毎日でした。
しかし勤務するうちに、遺族や生存者の方々の話や本を読み、この方々が無償で一生縣命に記念館の事や、犠牲者の為に尽くす姿を見るうちに自分の中でも変化があり、「私にできる事があれば些細なことでも協力したい」と考えるようになりました。
私自身にこんな心があったとは…と驚きでもあります。青木さまの文章にあるように「あきらめることなく」を最近学ぶことが多いです。(後略)

野原さんの一言一言が、壁にぶつかり打ちひしがれていた私の内面に沁み込んでいった。やりとりは主にメールである。その回数が増える度に私は活気づいていった。

仲宗根さん一家が三庄空襲で亡くなったことは分っている。しかし、その家族の実像が一切浮かんでこないのだ。それに迫るために自分なりに手を尽くしたつもりだ。では今後どうすればいいのだ。

こうした場合、経験的にはじっと耐えるしかないのである。辛抱し、我慢するなかで、ひらめきにも似たきっかけをつかみとるのである。私は野原さんとのメール交換を通した会話を重ねながら、闘志を回復させ、チャンスの到来を待った。

もうひとつ苦悶する私を励ましたものがあった。それは、「対馬丸記念館公式ガイドブック」に掲載されている対馬丸事件犠牲者の遺影である。とりわけその大多数を占める学童のそれである。

遺影になった学童の一人ひとりが、遠く離れた瀬戸内の島で亡くなった仲宗根家の子供たちに思えた。何度も何度も見たのである。

やがて野原さんからひとつの示唆を受けた。小学校への調査を強めるということである。学童疎開で因島の三庄町にやってきたのなら仲宗根家の子供たちは地元の小学校に通学しているはずだ。

急いで小学校の教頭に面会し、当時の在校者名簿を見せてもらえないかと頼みこんだ。しかし、あるのは卒業者名簿で在校者名簿はないとの返答だった。卒業者名簿には、7月28日の空襲で死亡した仲宗根家の子供たちの名が載っているはずはなかった。

やはり駄目か。私は追いつめられてしまった。もう打つ手はないのか。空襲当時、私の父は三庄小学校の教諭であった。その父に聞けば何か知っているに違いない。後の祭りである。他界して何年も過ぎた。

思い余って私は、大阪府に住む長姉に電話を入れることにした。空襲当時、彼女は10歳である。もしかしたら何か分るかもしれない。

しがみつく想いで私は事情を説明し、仲宗根家のことを覚えていないかと尋ねた。

「よく覚えているわ。仲宗根さんの家の一番上の女の子は私と同級生なんよ」

思いも寄らぬ返答であった。何ということであろう、必死に追い求めた事実は私の最も身近なところに潜んでいたのである。

(青木忠)

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