ふたりの時代【9】青木昌彦名誉教授への返信

青木廣光氏の功績 下
 青木廣光氏の功績は、無内容な「村上水軍末裔論」にとらわれることなく、幕末から明治にかけて、因島など瀬戸内の男たちがどのように生きたか、具体的に調査をつづけたことにある。祖先である青木忠右衛門の生涯にこだわったことは意義深い。
 青木茂氏は、自ら編集した「因島市史」のなかで次のように重要な指摘をしている。


 ―因島の海上生活者を、即海賊、即水軍と簡単に片づけてしまうのは誤りである。もちろん武士団発生以来、海を制するものが陸をも制したのであろうから、これらの海上生活者を手中におさめて、武力闘争の役割を受けもたせたことは、いうまでもあるまい。しかし海上生活者が、常に闘争部隊として動いたかというと、そうではない。(中略)
 豊臣秀吉が天下統一を終るとともに、海にまで刀狩りを徹底させた。徳川時代になると、まず世上は安定した。これに伴って起きるのが、農業生産物の拡大である。このことは、ひいて商品流通に刺激を与える。その媒体をするのが、海上輸送の船舶である。因島のみを問わず、近くは讃岐の塩飽にしてもそうである。そこで航海業は繁昌する。
 青木茂氏はそのような観点から、時代の波に乗って活動した因島船の動きを考察している(「因島市史」P807、第五章 航運業)。その章の終りに、「村に似合わぬ数の高級船員を送り出している」と因島椋浦を分析し、その代表例として幕船艦長青木宗作の項を設け、青木忠右衛門にページを割いている。「幕船の船長になって、佐幕党に一役をかって出た理由は、明らかでない。船員であった関係から、幕船に乗りこむようになったものであろう」と説明している。
 さらにつづいて、郷土史研究家である向井鶴太郎氏の次の教示を紹介している。
 ―維新前後の動乱期、特に幕府海軍部隊、戦後は明治政府の海上勤務をしながら重要視された仲間に、伊東増吉、北野由兵衛、藤井美次、北風浪吉、吉岡貞蔵、川本忠蔵、奥友五郎、大西満之助、村上吉之亟など、維新の混乱期に船員として活躍したものが多かった。
 そのなかの3人には注釈がつけられている。北野由兵衛は、明治20年代帝国軍艦を香港から廻航、水先案内人として将官待遇を受けた。藤井美次は長州藩士。川本忠蔵は、明治元年宮古島附近の海戦のさい、官軍旗艦甲鉄丸の航海長として勤務、その節小銃のため股部に負傷、その後商船員となる。
 因島椋浦は江戸の中末期、日本有数の大型千石船を有し、廻船で繁栄した。しかし江戸末期に没落し、多くの船員は引き続き他国船に乗り、また高級船員として明治維新後も活躍したのである。
 ところで、私が継いだ青木家の祖父・春太郎も船頭であった。私の家は曾祖父と祖父へと代々沖船頭として、瀬戸内海、江戸航路、北前航路を乗り廻った家系で、海難にも何度も遭遇した。祖父が遭難し、ただ一人、九死に一生を得て、椋浦に帰ってくると息子が生まれていた。もう船には乗るまいと決心し、百姓になった。船頭をやめたのは明治27年ごろで、35、36歳のころであろう。
 現在、住んでいる家屋も祖父が建てたものだ。これ以上荒らしたくないと耕作をつづけている畑にも、山を開いた祖父の苦労が偲ばれる。
 青木廣光氏の母・時子さんは、愛媛県上島町弓削島に健在で、104歳という高齢にもかかわらず、すこぶるお元気である。その時子さんの脳裏に昌彦氏の祖母・テイさんの面影が残っているという。当時因島には、袴を縫える人はテイさんしかおらず、近隣の女性たちが、椋浦に習いにきていた。教える姿は、NHK大河ドラマの天璋院篤姫のような髷を結い、袖なしの羽織を着ていたという

[ PR ]瀬戸田で唯一の天然温泉

しまなみ海道生口島サイクリングロード沿いに建つ、島で唯一の天然温泉を持つゲストハウスです。

サンセットビーチの砂浜に面し、1,000坪の広大な敷地には、四季折々の花が咲き誇ります。部屋や温泉からは瀬戸内海に浮かぶ『ひょうたん島』と、美しい夕日を楽しめます。

素敵な旅のお手伝いができる日を楽しみにお待ちしています。

PRIVATE HOSTEL SETODA TARUMI ONSEN
瀬戸田垂水温泉
広島県尾道市瀬戸田町垂水58-1
☎ 0845-27-3137
チェックイン 16:00 〜 20:00
チェックアウト ~9:00