「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【24】第五章 運命の電話

(3)対馬丸撃沈事件の生存者数(原則は「不明」としたうえで、おおよその目安として次の数字が記されている)

漁船・哨戒艇により救助された疎開者 一七七名
船員・砲兵 八二名
奄美大島に漂着して救助された人 二一名
合計 二八〇名

昭和19年(1944)7月7日のサイパン陥落を機に日本政府は沖縄県庁あてに「沖縄島、宮古島、八重山島から老幼婦女子を島外にひきあげさせよ」と打電した。疎開命令である。沖縄から8万人を本土に、2万人を台湾に移すことになった。

しかし、沖縄は留まるも地獄、去るも地獄の状態に追い込まれていたのである。こうした戦況のなかで対馬丸の惨劇は起きたに違いないのである。

「ガイドブック」を読んで初めて、那覇市に激しい空襲があったことを知った。昭和19年10月10日のことである。いわゆる「十・十空襲」である。市街地およそ90%が焼き尽くされ、死者225人、負傷者358人が出た。

この空襲後、一般疎開者が急増した。翌年の3月までにのべ九州と台湾に県民8万が疎開した。

因島の三庄空襲で亡くなった仲宗根一家は大阪に避難し、それから三庄に疎開してきた。おそらく十・十空襲直後に九州に行き、陸路大阪に向ったのではないか。

私は、送られた資料のなかで少しでも不明なところがあると、メールで野原さんに質問を発した。それに対して彼女は、即答してくれたり、必要とあれば調べたうえで丁寧な返信をくれた。

「ガイドブック」の「九州の学童疎開」という項に、「また、空襲で亡くなったり、栄養障害や病気で亡くなった学童もいました」の記述を見つけた。さっそく質問のメールを送った。

野原さんの返信が届いた。

その引用は琉球新報発行の「沖縄学童たちの疎開」からです。

戦火を逃れるために学童疎開したはずが、宮崎県西小林にて沖縄出身の2名の学童がグラマンの機銃掃射を浴びて死亡しました。西小林の駅を出征家庭の農作業に向かう途中に、低空飛行をしてきたグラマンが襲撃してきたと書いてあります。

沖縄出身者2名を含め10名死亡、18人が重軽傷を負いました。西小林小学校には亡くなった人たちの「殉職者の碑」が建立されています。

宮崎県児湯郡高鍋町においても、沖縄の泊国民学校の学童たちが疎開した上江国民学校の学童たちが塩田作業中に襲撃されましたが、幸いにもけが人はありませんでした。

私は昨年秋に沖縄に行き、取材を受けるために琉球新報社を訪ねた際に、「沖縄学童たちの疎開」を購入した。

野原さんが、感想集「対馬丸の記憶」とともに「四葉のクローバー」の入った手紙を送ってくれた。その文末に次のように記されていた。

記念館の屋上にはシロナツメクサが繁殖していますが、その中に四葉のクローバーが生えている時があります。確率は10万本に1本だそうです。花言葉は幸せを運ぶ…そうです。何かございましたら、ご遠慮なくお問合せ下さい。遠い沖縄からでもお役にたてればと思います。

(青木忠)

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