ふたりの時代【8】青木昌彦名誉教授への返信

青木廣光氏の功績(上)
 わが家に、光風会会員、日展会友の画家である青木廣光氏の一枚の絵が額に飾られている。椋浦町に住むにあたって、父から譲り受けたものである。この廣光氏が、昌彦氏のルーツを解き明かす鍵となる人である。昨年11月ころから電話で説明を受けていたが、今年の4月、直接お会いしてお話をうかがうことができた。


 もともと椋浦は青木家が最大勢力で、大本屋、中屋、瓦屋、塗師屋、茶屋、増屋に分かれていた。徳川幕府軍船美嘉保丸船将である三代目青木忠右衛門は瓦屋、廣光氏は塗師屋(ぬしや)の一統である。瓦屋は、椋浦青木氏の元祖に近く、廻船で繁栄したと見られる。両家は最も関係が近く、瓦屋が三代目忠右衛門で途絶えたあと、その活躍は塗師屋によって語り継がれた。
 昭和初期に、海岸の近くにある椋浦の墓所の一角に碑を建てたのは、忠右衛門の弟周之助の孫にあたる、伊藤伊勢夫である。「徳川幕府軍船美嘉保丸舩将青木忠右衛門碑」と業績を称えている。
 昭和58年1月、忠右衛門の子孫七人が碑台を新築し、廣光氏が碑文を書いた。この内容は、美嘉保丸が遭難した千葉県銚子市に三度も足を運んだ調査活動に裏付けられたものである。「土生小学校青木教諭は縁籍の関係もあり、遭難の銚子海岸を訪ねたが、記念碑が崩壊寸前にあった、とのことである」と、「因島市史」は記している。青木教諭とは言うまでもなく廣光氏のことである。
 やがて時代は平成になり、青木昌彦氏の父と妹が、この碑を訪れる時がやってくる。ほぼ十五年前のことと思われる。廣光氏によれば、「鎌倉の青木虎男さんが因島を訪ねてこられ、長男が港に迎え、平和タクシーで椋浦に向かい、碑を案内したところ、とても喜ばれた」と、いう。
 廣光氏は虎男さんらの訪問をきっかけに、寺院の過去帳を手がかりに家系図を作成した。昌彦氏の親族内にも、兄弟などに募金を募って因島に曾祖父の碑を建てたという話が伝わっている。また妹さんも因島を訪ねたことを覚えているという。
 昌彦氏の『私の履歴書』【6】(2007年10月6日)の記述に因島という地域が特別に反応したのは、碑と台座の建立に見られる、子孫による祖先の業績を称える営みの継続があったからであろう。
 さて、廣光氏による調査の動機となると、時代は第二次世界大戦の中国大陸にまでさかのぼる。当時、満州鉄道に勤務していたときに千葉県佐倉市出身の人に出会い、美嘉保丸遭難の慰霊碑が銚子市にあることを教えられた。母・時子さんから話を聞いていた廣光氏は、それは自分の祖先のことだとなった。
 1868年(慶応4)8月、榎本武揚が率いた幕艦8隻(開陽丸・回天丸・蟠竜丸・千代田形・神速丸・長鯨丸・咸臨丸・美嘉保丸)が品川沖を出帆し、函館に向かった。しかし、房総沖で暴風雨に遭遇、そのうちの1隻の美嘉保丸が銚子市黒生(くろはえ)海岸に乗り上げ、難破沈没した。その際死亡した13人は手厚く葬られたが、賊徒ということで墓はつくられなかった。碑が地元有志によって建立されたのは、1882年(明治15)9月のことである。現在も、潮風と雨にさらされ、侵食が激しいという。
 廣光氏が最初に現地を訪れたのは、昭和34年のころで、少なくとも3度は行ったという。そのころ同氏は、画家として活動しており、東京の上野美術館などを訪れたときに銚子市に足をのばした。銚子市の図書館長がその話に詳しく、収穫は大きかった。
 またこの調査結果は、青木茂氏に報告され、同氏が編纂した「因島市史」に反映された。こうした幕末期における青木忠右衛門の活躍の歴史的事実は、幕末から明治にかけて因島など瀬戸内島嶼部の男たちがどのように生きたかを知る上で示唆に富んでいると言えよう。

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