「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【22】第四章 宿命なのか

生まれて間もなく私に何があったのか。機会があれば調べてみたいと思うようになった。夢にも思わなかったチャンスが訪れた。生まれ故郷に住むことになったのだ。私に定められた運命の糸をたぐり寄せる時がきたのである。

戦争によって生後十カ月で命を失いかけたことを知らされたのは小学校4年生の学校における誕生会でのことである。校長としての父は、複式学級の3・4年の児童と保護者の前で、祝辞を述べた。

「忠君は赤ちゃんの時、空襲で死に掛けました。それでもここまで元気に成長しました」

得体の知れない恥ずかしさを感じた私は思わずうなだれ、周りを正視できなかった。それ以降、父も私もその話題に触れることをしなかった。

それから四十数年後に真相を知った。父は、生母と祖母が身を投げ出して生後十カ月の私を救ったことを告げた。まさしく驚天動地の心境だった。

私が生母から引き離されて祖父母に育てられたことも初めて知った。なぜ生母清子は40歳で死ぬことになったのか、その理由を知りたくなった。

死ぬ間際の病床に横たわったままで祖母が手を広げ、私においでおいでをした。しかし私はそれに応ぜず、露骨に嫌悪の表情をして身を翻した。祖母は優しく笑った。小学校四年のことである。

なぜ祖母の最後の願いに私は身を委ねなかったのか。今はその罪深さを思い知るしかない。その光景を思い出すたびに涙が込み上げるのである。

以前には思いつかなかった生まれ故郷での住み直し。きっと生母と祖母が私を呼び戻したのであろう。私は彼女たちへの追慕の色彩の強い空襲調査を始めた。ところがである。その実態は想像をはるかに超えたものであった。

「工場への攻撃の流れ弾が運悪くわが家に当たった」との内輪の言い伝えと正反対の連合軍による本格的な空爆だったのである。生まれ故郷の島がまるごと戦場だったことに気付いたのである。そのことを五十代半ばで知ったのである。何といううかつさであろう。無知蒙昧とはこういうことを言うのだろう。

やがて私は、わが家の敷地に投下され私を仮死状態に陥れた一発の爆弾が隣に住む、疎開してきた沖縄の家族を死に追いやったことを知ることになる。当初は、この悲しき因縁の意味を理解できなかった。

空襲体験、学生運動、人生をかけた沖縄闘争への決起、20年を超す裁判闘争。こうした自らの人生体験が一本の糸筋に導かれたものではなく、バラバラのものとしてしか自覚できなかったのである。

しかし、ある瞬間から、おのれの人生は幼き空襲体験を土台に形成されていったのではないかとの想いを強くするようになる。同じ爆弾で死んだ仲宗根家の人たちとは、私にとってどういう人たちなのか――狂おしいまでの自問自答が始まった。

その仲宗根家の消息を懸命に調べ始めた。地元の行政や寺院、沖縄県庁や沖縄のマスコミに問い合わせてみたが、手がかりになるものは何も見つからなかった。

次第に追いつめられていった。知りたいという想いが募るもののどうやって調べてよいか全く検討がつかないのだ。

もうこれが駄目なら諦めてしまおうと覚悟して、沖縄のある団体に電話を入れた。何の見込みのない試みであった。昨年の3月のことである。

(青木忠)

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