ふたりの時代【6】青木昌彦名誉教授への返信

まさかの縁 中
 青木昌彦氏と私の歩みと現在は、どのように考えても正反対である。たしかに学生運動を出発点とする意味では共通性を有しているが、そのあとはまったく異なっているように思える。交差するなどとは考えられない。


 昌彦氏は、学生運動の体験を清算することで大学への復学を果たし、学者の道を進んでいく。私は、破壊活動防止法の煽動罪の被告になったということで、学生運動から引退したものの、裁判闘争のつづく20年間、それを指導した責任から離れるわけにはいかなくなった。学籍はあったが復学にはまったく関心がなかった。
 破防法の煽動罪というものは、実行行為ではなく、演説の内容とその背後にある政治思想、さらには運動への指導責任を国家が裁こうというのであるから、裁かれる側はひくにひけないのである。1967年から1969年4・28沖縄デー闘争までの学生運動の正当性をめぐって、国家と最後まで真向から争うことになるのだ。起訴されたのが25歳、最高裁で有罪判決を受けたのが45歳のときであるから、一番の働き盛りの時期を国家との争いにエネルギーを費やしたことになる。
 問題はこの後である。学生時代を含めれば26年間の政治活動の経験を生かして、首都東京を「終の棲家」にすればよいものを、それを投げ捨てて広島県因島市(現在の尾道市因島)に家族とともに帰り、それ以降、東京時代をすべて清算したかのような生活を始めるのである。つまり、ヘトヘトに疲れはてながら、最後の生きる力をふりしぼって、新生活をスタートさせた。
 埼玉県出身の妻に対して地元のある婦人から、椋浦町に住むことについて「東京からの都落ちだけでも大変なのに、因島のなかで一番辺ぴなところに住むなんて」と同情の声しきりであったという。そういう見方もあるのかと思いながらも、家長におさまり、自分の持ち家に家族とともに住み着く、初めての経験も悪くないなという想いもなくはなかった。
 妻や子どもはともかく私にとって、椋浦町での生活はなくてはならない、必死なものだった。最も充実した時代を過した24年間の東京を捨てて帰ってきたのだから、まるで「生きる屍」であった。肉体は因島に在るが、精神は東京に置いてきた、という状態であった。妻や子どもたちは、新しい環境のなかで元気いっぱい。ますます追い込まれていった。
 私にとって椋浦町は、生きていく意味を再び見出す場所であった。この町は、保育所から小学生時代を過したまちで、幼なじみもいたし、幼かった私を知ってくれている大人たちもいた。幸いに家屋も庭つきで、狭いながらも柑橘畑や山もあり、目の前には瀬戸内海がひろがっていた。まさしく自由の天地に思えた。
 決して良い夫、良い父親ではなかった。家族ではなく、自分自身の内面世界の再確立を最優先した暴君でしかなかった。にもかかわらず、家族を養い生きていくためには、地域に溶け込み、おりあっていく、論理と作法を身につけねばならなかった。この点では、妻や子どもたちの力は偉大で、初めからこの地に住んでいたかのような逞しさで、容赦なく私を引っ張っていった。
 やがてリハビリの時期も終わり、新しい自分が芽生えた。地元の小さな造船所での錆とり工、土木建築作業員として働き、島に生きる心意気を注入し、それを土台に学習塾の経営に踏み切った。先祖から継いだ柑橘畑を生かして、ハッサクの全国産地直送も始めた。地元紙「せとうちタイムズ」編集の手伝いにも応じた。島内外の人たちとの交流が深まるなかで、地域社会で生きていく自信を少しずつ手中にしていった。
 さて、米国カルフォルニア州スタンフォードか、この遥かなる距離と空間をどうして埋めることができようか。

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