「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【21】第四章 宿命なのか

ベトナム戦争下の米原子力潜水艦の初寄港である。ベトナム戦争への日本の加担強化は明らかであった。加えて、放射能汚染に対する危機感が学生内に高まった。

私のキャンパスデビューは鮮やかであった。一気にリーダーになった。一気呵成、猪突猛進という表現がピッタリだった。同時にあくまで明るかった。私の周囲には絶えず笑顔が溢れた。

これは私の人生の新しい出発であると同時に日本の学生運動の新たな開幕の合図だった。六〇安保闘争の高揚と沈滞から3年後、学生運動は七〇安保に向って胎動を開始したのである。

それから2年も経ずして私は、全国的な運動の再建のために上京し、広島大学の青木から全学連の青木になった。

何も怖くなかった。ただただ前進あるのみである。呆れるほどのエネルギーである。それは「若さ」だけでは説明つかない何か別なものであるように思えた。

私の決起は宿命だったのではないか。

生後十カ月で米軍の空襲にやられた。母と祖母とともに生埋めになり、生死の境をさまよった。この時、復讐を誓ったのである。そして私は仮死状態から生還した。何のためか。わが家とわが家族を奈落の底へと落とした奴らに仕返しするためである。

わずか生後十カ月の赤子にそのような意識と意志が成立するだろうか。それは私にも分らない。しかし、その後の数奇な運命を、「幼き空襲体験」抜きに説明することはできない。そのように考えると実にスッキリするのである。

やがて私は運命的に沖縄問題に出会うことになる。沖縄返還=沖縄本土復帰の政治過程と私の学生運動は完全に重なったのである。そして沖縄闘争に関する演説が破壊活動防止法の扇動罪に問われ、沖縄との強い繋がりを持ちながら二十年余の裁判を闘うことになる。ここにも宿命を強く感じるのである。

人生の始まりにおいて私は、学童疎開で私の家のとなりに沖縄から引っ越してきた仲宗根家の母子六人とともに同じ爆弾の攻撃を受けた。6人は即死し、私は生き残った。

この体験が私の沖縄問題への覚醒と無関係と言えようか。「赤子の空襲体験」が大学生になった私の内面で突然動き出したとは考えられないだろうか。

人生が四十代後半にさしかかったころ、ひとつのドラマが生まれた。ライフワークと決めていた東京での政治活動にあっさりと区切りをつけて、家族を連れて生まれ故郷に舞い戻ってきた。

ありえないことだ。そもそも私は、弱冠22歳にして志に基づき上京した際には、「箱根の山を一旦越えたからには、二度と生まれ故郷に住むことはない」と誓ったはずである。

上京して二十数年、すっかり生活基盤は東京にあった。東京生まれで埼玉育ちの女性と東京目黒に所帯を持ち、ふたりの子供をもうけた。政治活動から引退した後もそのままその生活を継続すればよいではないか。

しかし私はそうしなかった。まったく正反対の道を選択した。私の内面に何が作用したというのか。

故郷に住み直すにいたる動機は数種類あった。そのなかでも幼いふたりの子供を瀬戸内の島で育てることが主なものであったと言えよう。私を育んだ環境のなかで子供たちも成長してほしかった。

だがそうした動機とはまったく異なる次元のものをかすかに私は意識していた。自覚できなかったが、何か目に見えぬ力が私を動かしたようだ。

(青木忠)

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