「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【19】第四章 宿命なのか

私の初恋は小学5年生の時である。

ほぼ同じ時期に政治と社会への目覚めが始まった。

私は最上級生になった。通う小学校は当時、NHKのラジオ放送を活用した視聴覚教育を重視していた。そのなかでも私の好きだったのは、「世界と日本の動き」をテーマにした番組である。そこで毎週、世界と日本の5大ニュースが発表されるのだが、児童たちはあらかじめそれを予想し、どれだけ一致するか競った。

私の予想は面白いほど当たった。新聞を読み、ラジオニュースにも関心があった。それをもとに夕食時、父親に矢つぎばやに質問したものだ。

今でも思い出すのは、1956年7月のエジブトのナセル大統領のスエズ運河国有化宣言、それにつづく10月のスエズ戦争開始、11月のソ連軍のハンガリーへの第2次介入などである。覚えているということは、それらの国際的事件が、後の私の思想形成に大きな影響を及ぼしたということであろう。

中学に入学するとクリスチャンの養母の信ずるキリスト教に幻滅することになる。

養母が家族の一員になるやまもなく、私たちはクリスチャンファミリーに変貌した。夕食の前に必ず祈りを捧げていた。私もかなり熱心で、中学2年のクリスマスまではキリスト教の集まりに出席していた。

事件は中学2年になりたてのころ皇太子の成婚パレードを巡って起きた。「神の前ではいかなる人間も平等」と信ずる私にとって、その行事は異様に思えた。ところが養母は、そのパレードのテレビ中継に無我夢中になっているではないか。

あきれてしまった。クリスチャンもいい加減なものだと気付いた。言行不一致は大嫌いだった。この事件が影響し、高校一年の時に養母からキリスト教の洗礼を受けるよう誘われたが、首を縦に振ることはなかった。

私の中高時代は、野球と受験勉強一色であった。当然にも政治や社会への関心は高くなかった。しかし、国民的大事件の六〇年安保闘争高揚の影響は私にとって小さくなかったようだ。高校一年の時である。

当時、再軍備の動きに疑問を感じた記憶がある。1950年警察予備隊―1952年保安隊―1954年自衛隊設立の流れに少年ながら軍隊をイメージしたのだろう。ちょうどこのころである。タイトルは忘れたが、姉の書架の本にあった1956年の砂川基地拡張反対闘争の記述に胸を熱くしたことがある。警官隊と学生の流血事件である。

高校2年のホームルームの時間だった。担任の教師が突然、学生運動批判を始めた。彼は私が進学をめざす広島大学出身の英語教師であった。要するに学生運動をするなという説教である。私はそういうものかと簡単に納得した。そして広島大学に入学した。

この大学が自らの人生を決めてしまうなどと誰が予想しえよう。父母は順調に卒業し、地元に教師として帰ってくると信じて疑わなかった。

だが私は入学早々、青天の霹靂の経験をするのである。大学正門の前には原爆記念病院があった。そして時々、ラジオからその病院で被爆者が亡くなったとのニュースが実名入りで流れた。

私は仰天した。私は知らなかったのだ。こんなに原爆の傷痕が生々しく残っているとは。受けた衝撃は尋常ではなかった。それ以来、頭をたれながら正門を通過するようになり、ついには裏門からキャンパスに入るようになった。

(青木忠)

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