ふたりの時代【3】青木昌彦名誉教授への返信

善は急げ 中
 尾道市因島椋浦町は因島のなかで最も小さな町である。三月三十一日付けの統計では、五十三世帯、百十八人が住んでいる。その町の海岸近くにある墓所の一角に、青木忠右衛門の碑が建っている。

「徳川幕府軍船美嘉保丸舩将青木忠右衛門碑 壮年 茶屋宗作 伊藤伊勢夫建立」

と、刻み込まれた二メートルを超える石碑である。伊藤伊勢夫氏は、子孫である。昭和初期のものであると推測される。


 碑の台座には、

「昭和五十八年一月 吉祥日 碑台座新築する 建立者 忠右衛門の子孫 青木 博 青木 勝 青木一己 青木廣光 青木松夫 青木桂一 青木 茂」

とあり、青木廣光氏が書いた、次のような碑文が記されている。

 ―徳川幕府軍船美嘉保丸は慶応元年六月オランダより購入した三本マスト八百頓機帆船(ブランボルグ号)で当時としては優秀な艦船であった。之に乗り組み幕末期縦横の活躍をした 船将青木忠右衛門は榎本武揚に率いられ他艦船と行を共にし北海道に新天地を樹立する目的をもって慶応四年八月二日品川沖を抜錨第一終結地奥州陸前松島港に向け航行の途次下総国銚子浦沖にて大時化(台風)遭遇難破黒生浦に漂着する

と「復古記」に記されている。

 因に艦隊編成は開陽丸を旗艦として回天幡龍長鯨千代田神速咸臨美嘉保丸の八隻であった 船将青木忠右衛門(壮年名茶屋宗作)は当椋浦の出身である。

 「因島市史」は、「幕船艦長青木宗作」の項目を設けて、「復古記」を引用しながら詳述している。遭難後については次の通りである。

 ―兵員は定めにくいが、漂着後、健康なものは、分散して逃走、行方をくらましたが、徳川亀之助の家来山岡鉄太郎の、乗員幹部の報告は撤兵差図方石井謙次郎外四七人となっている。この氏名のなかには茶屋宗作(青木忠右衛門)の名は見えない。船長としての乗船であるから、戦闘員でないため姓名をぬいたのか、それとも、脱走行方をくらました一人なので、姓名が洩れたのか、そのいずれともわからない。向井鶴太郎氏(椋浦町の郷土史研究家、筆者註)からの教示によると、脱走後民間の船長として活躍したが、明治十八年六月三日死亡とのことである。

 因島椋浦町に現存する墓碑を見ると、

法名「直覚道智信士、明治十八年六月三日没」

の字が読み取れる。
 椋浦町の郷土史研究家である平澤文人氏が著した「千石舩 椋之浦」には次のように記述されている。

 ―いずれにしても、その後はおそらく江戸の馴染みを訪ね、嫁にして椋浦に戻って来たと思われる。妻は江戸の木綿問屋の娘で、御殿女中を勤めていた。忠右衛門は、二十貫(七十五キロ)の堂々たる好男子で、陣笠、打裂(ブツサキ)羽織に大小刀を許され供を従えて登城していたという。惚れられていたのである。それにしても愛人を諦め、行けば再び古里へ帰れる望みのないエゾへなぜ行こうとしたのであろうか。
 運よく遭難で助かり、愛する人を娶り、椋浦へ帰って三女を授かった。が、その後がいけない。長女は幼く失い、自分も四十四才で病死、続いて二女、妻も死に、独りになった三女テイは、母の実家を訪ねて上京した。
 茶屋宗作は通称で、瓦屋青木忠右衛門を相続襲名した。瓦屋も廻船持ちで祖父嘉兵衛は組頭を勤めた。惣作の弟周之助が、瓦屋の古い分家、塗(ぬし)屋青木喜一郎の妹に人夫した。顕彰碑を建てた伊勢夫氏はその子で、伊藤へ養子に行った。

 こうして昌彦氏の曾祖父の実像と祖母・青木ていさんの動向が分ってきた。

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