「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【17】第四章 宿命なのか

1945年7月28日午前10時25分頃、因島三庄町を襲った爆撃が私の運命を決めた。その時私は生後十カ月、一度は死にそして蘇った。私はまごうことなき「空襲の子」である。

それ以来私は、一見朗らかな素直な子供のようで実は稀代の「反逆児」になったのである。すでに生母清子の日記にその兆候が見て取れる。

8月19日の日記

「元氣な忠と会えてうれしかった。いたづらもはげしいけど皆んなに可愛がってもらってゐるからなによりだ」

9月30日の日記

「父は淋しそうだが忠は元氣。私もこれだけ元氣になったし、こちらにつれてくれば、何かにつけて父母のフタンも輕くなる」

清子は私の「いたずら」が気にかかっていたのだ。それが祖父母に負担になっていることを承知し、一刻も早く私を引き取ることを決心したのである。

まもなく清子と私の同居が実現した。生母のもとから私は、開設されたばかりの父が所長を兼任する椋浦保育所に入所した。しかし私の「いたずら」は治まらなかった。

父の多忙さと母の病気のスキをついては非行に走ったようだ。生前の母との唯一の記憶がある。買い食いが見つかり叱られたのである。

父の机の上から小銭をくすねては近くの雑貨店に入りびたっていたようだ。そのことに母が気付かないはずがない。

業を煮やした清子は私を尾行し、店から出てくる私を待ち伏せたのである。清子の顔は怒りと情けなさで凍りつき、まるで能面のようであった。この買い食いの癖は母の死後もしばらくの間つづいた。

清子の死後すぐの父親の再婚にも反乱を起こした。家庭に入ってきた養母・行にことごとく逆らったのである。挙句の果てに、力ずくで押さえつけようとする養母に泣きわめきながら「出ていけ!」と絶叫した。私は本気だった。どこまで大人の都合で幼子をたらい回しにしたら気がすむのかとでも思ったのであろう。

しかし幼き「反乱」はみじめな結末だった。激情家の養母のゆさぶりに私はたちまちにして屈服したのだ。養母は本当に出て行ったのである。父になだめられ、付き添われて養母を訪ね、「帰ってきて」と嘆願するはめになったのである。

小学4年の誕生会の際校長としての父は、私が空襲で死掛けたにもかかわらず成長したことを全校児童や保護者の前で語った。しかしこの事実を受け止めることができずに私は、やがて禁断の遊び「空襲ごっこ」にひとりぼっちで興ずるようになった。

「B29空襲警報、爆撃」とつぶやきながら、マッチ捧の頭薬を砕いた粉を、ガンガンに熱くなった図書室の石炭ストーブの蓋に振り掛けるのである。そうすると火花があがり、それが爆弾の破裂に見えたわけだ。まさに孤独な禁じられた遊びだった。

やがて最上級生になった私は児童会長に選ばれた。わずか50人の児童数ではあったが、まとめ役は楽しかった。しかし教師に心を許すことはなかったようだ。

ある教師は口癖のように言った。

「忠君、たまには私の言うことを素直にききなさい。あんたはいつも、僕はこう思うと文句言うじゃないの」

きっと扱いにくい生意気な子供だったに違いない。

(青木忠)

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