「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【14】第三章 呼び戻されて

昨年の初夏、岸和田市に住む長姉と電話で生母清子のことを語り合った。その会話はおのずと清子の日記のことに及んだ。私がそれを読んでから15年が過ぎていた。

10歳違いの長姉は、病弱な清子に代わって母のような存在だった。

「あそこに書いてあること全部、私は覚えとる。だけどすべてを忘れて生きてきたんよ」

すかさず私は言った。

「姉さんがあの頃、家を支えていたんじゃね。母さんがそのことを書いているよ」

日記に登場する姉は中学1年の13歳である。病床の母に代わり家事全般の中心が彼女の役割だった。食糧難のころで畑仕事や薪づくりなど仕事はいくらでもあった。さらに隣町に住む祖父母の田畑の手伝いに行くのも決まって姉だった。

「お母ちゃんは本当に子供に優しい人だった。食べ物のことでも度々お父ちゃんと喧嘩になっていたわ」

付き合いを大事にして世話になった人に渡そうとする父に対して、とにかく子供に食べさせてやってくれと母は言い張ったという。

「その点では僕ら子供5人は母さんの期待に応えることができたね」

私の実感だった。5人とも今も元気だ。

話題は母の身体を蝕んだ肺結核のことに移った。当時結核は不治の病とも呼ばれた。

私はずっと疑問だったことを尋ねた。

「母さんには特効薬のストレプトマイシンは間に合わなかったのかね」

「いや、それをうったんよ。だけど効かんかったんよ」

つづいて父への不満をぶつけてみた。

「僕は思うんだけど、なんで父さんは単身赴任しなかったのかね。病身の母さんを連れて行かなきゃよかったんよ」

結果的には隣町に連れて行ったことが母の命取りになった。闘病中の母は盲腸炎を発症した。運悪く荒天で当時唯一の交通手段であった船が欠航し、待ちきれず峠を越えて病院に搬送したが手遅れであった。

姉は意外なことを言った。

「そうよ、お父ちゃんもそのことを後悔していた。実家から離したのは間違いじゃったと言っていたわ」

姉の話はつづき、母の病室での最期のことを語った。

「私はあの時、病室にいたんよ。一部始終を見てたんよ」

想像もしなかった姉の話だった。言葉が出なかった。死ぬ間際の母のことを聞きたくなかったのである。

私が5歳の時に清子は死んだ。その5歳の目に映った母の最期の姿で十分だと思った。母は実家の1階の座敷に敷かれた布団に固く目をつむり何も語ることなく横たわっていた。私はその光景の意味を理解できずに涙を流すこともなく見つめていた。

日記は38歳の母が記したものだ。明瞭に「遺書」と題されている。文中にも書いてある。

私が病氣で心が平静を失ってゐるのかも知れぬ
皆んなに色々とつくしてやり度くてもできないいらだゝしさ
フッと上せたら氣が狂ってしまいそうな私の頭
海にでも飛び込むかも知れない様な、つきつめた私の心
ぢいっと考へなかったら、落ちつかなかったら
私は狂ふかも知れぬ 父母の顔 主人の顔
子供達の顔がなかったら、死ぬかも知れぬ
思ひつめた時には、何にをするかも知れぬ
主人に心配をかけてすまなかった。
心が騒がない様に氣をつけよう。

(青木忠)

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